五木寛之さんの「下山の思想」が売れているようだ。ボクのブログ記事にもかなりのアクセスがある。テレビでのインタビューの影響もあるみたいだ。昨年ブータン国王の来日に癒された日本を見ていても、少しずつ意識が変化しているのかもしれないと思う。日本とは異なるNo.1の姿を見せてくれた意味は大きい。
誰もが程度の差こそあれ日本が既にNo.1ではないことを自覚している。だが考えてみると、何を持ってNo.1だと言っていたんだろうか。経済一辺倒で突っ走ってきたこの国は近視眼的になり、ただひとつの価値=マネーだけをひたすら追い求めてきたのだろうか。それはいったい何か意味のあるNo.1だったのだろうか。
パックス・ジャポニカと呼ばれた時代が確かにあった。ジャパン・アズ・ナンバーワンとも。今思えばとても暗示的だ。パックス・ジャポニカはパックス・ロマーナのダジャレだろうが、ローマの栄光はもはや遠く古の彼方にあり、日本の現実もまた歴史の通過点に過ぎない。
パックス・ロマーナが復活したという話は未だ聞かない。パックス・ジャポニカという山をまだ目指すのかどうかが問われている。
今年の大河ドラマは平清盛。盛者必衰の理を表す。平家物語の冒頭はなんて美しい日本語の響きだろう。滅びの美学もまた日本のお家芸だったようだ。
平家が衰退しても日本はまだある。300年続いた徳川幕府が滅びても日本はまだある。第二次世界大戦に負けても日本はまだある。国家が永遠に存在するなんて幻想を持ったりしないが、現代日本がそうそうなくなる時代でもなさそうだ。
日本はどのような未来を描くのか。それこそ“想定外”の何かがきっと起こることだろう。想定内の取組だけでドラスティクな変化は望めない。それが誰かの思惑によってなされるのか、またしても天変地異なのか、グローバリズムという連鎖なのか、世界同時多発的行動なのか、まったくわからない。
しかし意識を根底から覆されるような事態に直面したときに、せめて驚かないで順応できる生き方を身につけておきたい。「下山の思想」や映画「降りてゆく生き方」は今現在から少しズレた価値観をもたらした。複眼的に世の中を見るための入門編になりうる。
同じ山にはもう登らない。だけど日本をあきらめない。身近なところから個人が自分の頭で考えて自立した行動をとりつつ、小さなコミュニティを豊かにする方策を実行し、そんなコミュニティがゆるやかに連携していくネット社会が理想だ。グローバルでない、手の届く範囲で、自立し特色あるコミュニティを目指す必要があるように思う。
パックス・ジャポニカ・アゲインはムリだが新しい価値観とともにジャパン・アズ・オンリーワンを目指したいものだ。