ハングルを始めてもうすぐ丸2年になる。ハングルに触れない日は一日もなかった。これからも毎日触れることは続けられると思う。これが苦でないのはたぶん勉強してないからだろう。
勉強は嫌いだ。学習は好きだけど。この違いにはずっとこだわっていて、私の書いた文章には「勉強」を肯定的に使ったものがいっさいない。少なくともこの20年くらいはないはずだ。意識して避けているから。通常「勉強」と書いてしまいそうな文脈では、必ず学習とか学ぶという言葉を使っている。
逆に強いて勉める(やらされ感のある)ことに関しては“お勉強”という言葉を頻繁につかっている。基本、揶揄するときの言葉だ。
こだわりというのはまさに続けることだ。こだわることで立ち位置をハッキリさせる。勉強なんてやらない。これがこだわり。自分がやりたくてしているから韓国語の学習は続いているとも言える。勉強だったら続かない。もし学生時代に韓国語をやらされてたら学校英語と同じように続かなかったと思う(学校英語という言い方も何年間もあえて使ってる)。
「学校で教わらないこと」というのが私のモチベーションの在り処でもあった。学校で習うことは他人も習ってるんだから私がやらなくても誰かがやる。その能力を必要としている国家なり社会なりがあるなら私でなく彼を採用すればいい。私はその要求には応えられないから必要のない人間だ。
いまの(2005年以降の)ビジネス用語でいえば学校で勉強する競争というのはレッドオーシャン(過当競争市場)なのだ。それに対して学校でやらない学習分野はブルーオーシャン(未開拓市場)といえる。そのほうが知的に面白いのは当然ではないだろうか。
そんな私だったが、多少ものがわかってくると自分だけの知識などというものが幻想だとわかってくる。現代の知識とは一部の科学などを除き編集された知識群といえる。
つまり個々の知識にオリジナリティがあるのではなく、知識の関連付けや使い方を(松岡正剛的な言い方だけど)編集する作業そのものにオリジナリティが宿る。編集作業は文脈作りでもあるので脈絡がないと相手にされないが、常識にとらわれて自分の頭で考えないと予定調和なことしか言えないツマラナイ人になってしまう。
だが日本という国はレッテルやブランドが大好きなのでツマラナイ人が幅を利かす。内容よりも肩書きが重要だ。それを「ぷぷっ」って笑って生きられるかどうかがボクの人生の課題ともいえる。続けられるかどうか自分でもわからない。
しかしレッテルやブランドを敢えて利用することはある。私は初対面とその後とがまるっきり違う人間だ。だからほとんどの人の期待を裏切る。裏切りも大好きなキーワードだ。裏切りこそ人生ともいえる。道草と裏切り。これが好きな言葉だ。
ツマラナイ人のように出会えばオリジナルを全面に押し出して裏切り、変わり者として出会えばツマラナイ人を装って裏切る。なぜそんな生き方をするのかといえばひねくれものだからだ。この日記を読んでいればよくわかると思う(笑)。
少なくとも私はそういう素直な子じゃなかったですね。
中学卒業まで皆勤賞でしたけどね(笑)。