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故郷について
私は東京生まれである。両親に連れられ、満州に渡った。それが生後何か月のことかは
聞いていない。最初に住み着いたのは長春(旧満州新京)だったらしい、両親から聞いてはいない。物心着いた時は瀋陽(旧満州奉天)。戦後引き揚げた。60代になるまで、瀋陽の思い出は私の中で封殺されていた。もう一度瀋陽の地を踏むなど考えられなかった。日本の中国侵略、植民地支配を私には罪悪感を持ってしか考えられなかったからだと思う。満州育ちの仲間でも、日本は中国にインフラ整備をした。それがのちの中国建設に役だったとプラス思考する人もいる。あまり動機もなく中国語を始めたと思っていたのも実は不思議な力が働いたのだろうか?50過ぎ中国語の勉強を始めた。せっかく勉強した中国語だから、使ってみようと、定年後中国に渡った。中国でなくてもよかった。韓国でもよかったが、韓国はでは仕事が見つからなかった。最初中国で大きな顔をして私の故郷は中国ですとは言えなかった。日本人は招かれざる客(不速之客)だったが、中国人がそういうこと許してくれるなら私の第二の故郷は瀋陽(または中国)ですと言っていた。しかしこの点で中国人は寛大であった。そんな前置きをしなくても、いやな顔をされたことがない。歓迎されていたと思う。不思議な力にひきつられたかのように中国に渡ったのだが、不思議なことはまだある。私は大連、アモイで働いたあと、仕事を失い職を探した。インターネットで探し、東北のある学校に連絡した。どこでも赴任するつもりだったが、偶然にもそれは瀋陽にあり、私の中国生活6年中最長2年を占めることとなった。私は東京生まれ、中国育ち、どちらも故郷の実感はない。ともに第二の故郷でもいいのかもしれない。