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日本語教育について。私は数学者として中国に渡り、その後仕事がみつからなくなり、
日本語教育に転じた。中国人の学生は、日本人の学生とちがう可愛さがある。それで
とうとう、6年も中国にいた。中国生活の最初の2年は大学の数学科で教えていた。
しかし2年目に仕事がみつからなくなった。その時、アモイの大学で中国語で数学を大学教授に授業するという私にとてスリリングな仕事をしていた。この大学は数学科に大学院新設を申請していた。私はそこで、院生指導をする予定だった。しかし、申請が認められず、教授に教えるというのは正規の授業でもなく、職を失った。そのころ同じ大学の日本語科のただ一人の日本語女性教師Mさんから、日本語コーナーに出てほしいと誘われ、お手伝いした。これは、決められた時間に学生と日本人教師がおしゃべりをする教育活動で、もともとは英語教育のEnglish corner から来ているらしい。話題は決まっている場合もあり、ない場合もある。日本語科は新設初年度であり、20数名のほとんど女子学生であった。Mさんが都合で帰国することになり、私がその後任になるよう頼まれた。しかし私は数学者であり、日本語教育の専門家ではない。すぐには決心できなかった。しかし
南中国の田舎の学生は人懐こく可愛かった。それで、急場に、日本語教育について勉強もし、お引き受けした。これがその後4年におよぶ私の日本語・数学教師生活が始まった。日本語教師になるためには資格として、一般に次の3条件の一つが求められる。(1)420時間の日本語教育の講習を受けている。(2)大学ので専攻・副専攻で日本語教育を修得している。(3)日本語教育の能力試験に合格している。しかし、私にはそれがない。この3条件は日本では厳格に要求されるが、中国では、会社、大学を定年で退職し資格なしで教えている人もいた。M先生は日本の大学の中国語科出身で、中国で語学研修後日本語教師になった。資格はお持ちでない。中国での日本語教師は高齢、退職の男性教師と若い女性の有資格教師に分かれ、若い男性教師は少ない。私の授業は会話とヒアリングであった。文法、購読ほかは中国人教師が担当していた。これは、中国の高校・大学ではどこでもほぼ同じであろう。ただ、日本語学校ではでは、日本人がすべてが教えることもある。1年半テープレコーダーをもって、教室に入る生活が続いた。5月の連休に数人の学生から、彼女たちの家に招待された。日本では考えられないので主任に受けていいか相談したらいいと言われたので、お受けした。二泊三日程度で、学生の家族と一緒に過ごした。夜は近所の親せきの家を回った。多分彼らは初めて日本人を見たのであろう。学生はその日本人の通訳ができることが自慢だったのだろう。学生に慕われ、ここでの生活は
もうしばらくは続くように思われたが、大学は日本語教育の専門家を必要とし私はここでの仕事を失った。大学によっては、資格がなくても、日本語を教えている場合もある。わかい中国人日本語教師Nさんが、献身的に私の新しい職場を探してくれた。ほとんど決まったが交渉中の他の大学と比較してすぐに返事をせず、相手を怒らせ駄目になったこともある。私が数学者であることはここでは不利に働いた。文系の専門家特に国語教師であれば、職は見つかったかもしれない。結局うまくいかず、たまたま紹介され決まった瀋陽での高校教師の生活がはじまることになった。ここでは日本語教師をするつもりだったが、数学を教えることになった。私の第二の故郷ともいうべき瀋陽で仕事を得たことはうれしかった。私はアモイのように学生との交流があるかと思ったが、環境はまったく違った。学生との個人的交流は禁止されていた。このエリート進学高校の学生は朝から晩まで受験勉強に励んでいた。それでも幾人かの学生との交流はいまでも続いている。瀋陽の多くの日本人教師とも知り合えた。私が9歳まで住んでいたでいたところ、通っていた小学校のあとを何回も訪れるという贅沢も出来た。職探しは大変だったが、それがあって、この結果があった。この高校で2年教えさらに中国で2年いたことになる。その後、若者のまねをして、履歴書を書き、自分を売り込むという生活をすることになる。それについては、また書く。