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学生、食べ物と言葉
私は定年後6年間中国各地で教師として暮らした。最初に大連、アモイ、瀋陽、浙江省
温嶺、湖南省長沙である。最後に病気になって、やむなく帰国した。企業の駐在員と違い待遇はあまりよくなかったが、すでに年金生活者であり、生活に困ることはなかった。中国での日本語教師は主に若い女性と高齢の男性に分かれる。女性は日本の企業で働いていて仕事に生きがいを感じられなかったり、語学留学で中国に渡りそのまま教師になったりする場合がおおい。彼女たちは一定期間働き、結婚その他のため帰国する。高齢男性は日本で定年を終え、中国で働いている場合が多い。働き盛りの男性が少ないのは、待遇の問題であろう。私が6年中国生活を続けられたのは、次の3点(1)学生(2)食べ物(3)言葉。にある。(1)学生について、当初私は定年後1,2年中国で働き帰国するつもりだったが、熱心に学ぶ純真な若者を見て、役に立ちたくなった。(2)食べ物について、中国ではほとんど一人で暮らした。食事は時と場所によるが学校の食堂でするか、自炊であった。私は料理が好きで、よく自分で作った。学生を宿舎に招いて一緒に食べたことも多かった。今でも来日する教え子からおいしかったといわれる。食材は現地調達で、日本から送ってもらったのは寿司用の海苔だけだった。中国でも大都市では日本食材は買えたが、ほとんど中国のものですました。醤油、みその味が違うが、何とか工夫した。体調が悪いとき、淋しくなった時、自分で作った。中国各地を回ったが、高級料理店でのグルメとは無縁だった。南方の料理は淡泊で北方は辛く脂っこくともにおいしいが、私には南方料理が口に合う。浙江省温嶺は海岸の田舎町で海に近かった。ここでは3食ほとんど学食で食べた。魚、エビ、貝、イカ、タコなどが朝からでておいしかった。私は学生にこれが日本食と称しずいぶんいろんなものを出した。生モノは使えないので海苔巻を作った。日本から持っていけばいいのにでんぶを魚から作った。食紅だけは微量なので、日本から持っていった。魚は日本ではタラで作っていたが、白身の魚をゆでて作った。これは好評だった。海苔巻は数十本作ったと思う。後はカレー。我家ではルーを使わず、カレー粉から、トマトと玉ねぎから作る。カレー粉は中国に売っていないので日本から持っていった。日本ではトマトピューレ、トマト缶詰を使ったが、中国で調達は難しかった。やむなくトマトケチャップを使ったが、これも場所によっては入手は困難だった。オムライスも好評(3)言葉について、中国語は独学で先生に教わったことはほとんどないが、何とか日常のようには足りるようになった。このことは長期の単身赴任を可能にするのに役立った。アモイでは方言のびん南語の勉強を始めたが、次のところに移ったので辞めた。今でも教材が我家の段ボールの箱に入っているが、もう再開することはないだろう、覚えたてのびん南語を使い市場で買い物したのは楽しかった。
わたしは一人の生活を十分楽しむことができますが、妻は一人で気楽な生活が出来るというタイプでなく、淋しい思いをさせたと思います。自分が男だったらわたしのような生活をしたかったといって、いつも私を支えてくれました。今家にいて、わたしは買い物、料理
などかなり妻の手伝いをしています。勉強、買い物、料理、日本語学校での数学教師がわたしの日課です。これはこれで楽しいです。