dimanche 14 juin 2020
(français)
2019年前期入門編Bienvenue dans la francophonie フランコフォニーへようこそ
(番外編) 歴史の勉強 ただし自己流m(__)m
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1830年 l’expédition d'Algerアルジェリア出兵
la conquête de l'Algérie par la France アルジェリア征服
*l’expédition (n.f.)
(Google翻訳) ②遠征・出兵Opération militaire en dehors du territoire national. 遠征・出兵 ①発送Envoi de marchandises. ③ Voyage d’exploration : une expédition polaire 極地探検
どうしてフランスはアルジェリア(当時はオスマン帝国下)に出兵したの?
わからなかったので、いろいろ読んでみました。「小麦」のことで、知らなかったことが分かってとても興味深かったです。
有名なマリー・アントワネットの「パンがなかったら…」について、Wikiに書かれているのは (ネット情報の真偽は要確認ですが)、
Depuis 1931, on attribue à Marie-Antoinette une boutade cynique : « S’ils n’ont pas de pain, qu'ils mangent de la brioche ! ». Or, elle n'a pas pu prononcer cette phrase qui figure déjà dans le Livre VI des Confessions de Jean-Jacques Rousseau publiées en 1782. Aucune personne n'attribua la boutade à Marie-Antoinette à l'époque en 1789, les partisans de la Révolution compris.
1931年から「パンがなければ、ブリオッシュを食べるように!」という皮肉(シニカルジョーク)はマリー・アントワネットのものと思われている。しかし、この言葉は、1782年には、すでにジャン・ジャック・ルソーの『告白les Confessions』6巻に出ていて、彼女が1789年に言ったという可能性はなく、また1789年当時は革命派の人々を含め、誰もこの言葉を彼女のものと思っている者はいなかった。
でも、フランス革命当時、小麦の値段が高騰して、都市の住民に行き渡らなくなっていたということなのですね!
革命の数年前1773年74年の夏には凶作mauvaises récoltesがあり(原因↓参照)、1775年4月から5月にフランスの北部地方と東部地方で暴動まで起こっている。
[6/17 追記] 近年フランス革命への prélude だったとも考えられているそうです
また、1788年には、エルニーニョか、1783年の『アイスランドのラキ火山の大噴火』の影響と思われる、フランス革命につながる飢饉があった。
Famines entrainant la révolution française, peut-être lié à El Niño ou à l'éruption de 1783 des Lakagígar en Islande.
*飢饉 famine (n.f.)
* l'éruption (n.f.) 噴火・噴出
1830年にアルジェリア出兵を決めたのは、ルイ16世の弟、シャルル10世。その背景が『扇の一打事件』(1827年)に書かれていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/扇の一打事件
l’affaire de l'éventail
「フランスは、ウィーン会議により再び革命前の王政に戻れたが、支配者たちは、民衆を飢えさせると革命が起きるという教訓を忘れなかった。食料をしっかり確保しないとまた革命が起きてしまうと恐れたフランス国王や貴族たちは、対岸のアルジェリアに目をつけた。」
「フランスはフランス革命の最中から、マルセイユからアルジェリアの小麦を輸入しており、アルジェリアを領有すれば小麦やパンを大量に確保できると国王は考えた。」
・ウィーン会議…ウィーン体制 とってもよく聞きますが、ちゃんと知りませんでした(少し恥ずかしいですが…)
「『フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的』として、オスマン帝国を除く全ヨーロッパ各国代表が集まり、1814年9月1日から開催された。1792年より以前の状態に戻す正統主義を原則としたが、各国の利害が衝突して数ヶ月を経ても遅々として進捗せず、「会議は踊る、されど進まず」と評された。
1815年3月にナポレオンがエルバ島を脱出したとの報が入ると、危機感を抱いた各国の間で妥協が成立し、1815年6月9日にウィーン議定書が締結された。このウィーン議定書により出現したヨーロッパにおける国際秩序は「ウィーン体制」とよばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィーン会議
・王政復古la Restauration
・Trois Glorieuses 栄光の三日間(1830年7月27・28・29日)
は、いつかWikipédiaで読んでみたいと思っています♪
ところで、同じように、ナポレオンはどうしてエジプト遠征したり、ロシアに行ったりしたのかな、と単純な疑問がありました。(というか、どうしてフランスはこの時代、周りと戦争してるのかなと…)
なるほど~と理解したのは、ナポレオンに関しては、最初から『軍人』だったという、当たり前のことでした。
「フランス革命へのオーストリアの干渉に端を発したフランス革命戦争が欧州各国を巻き込んでいくなか、総裁政府はドイツ側の二方面とイタリア側の一方面をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図しており、ナポレオンはこの内のイタリア側からの攻撃を任され(1796年) [...]ドイツ側からの部隊がオーストリア軍の抵抗に苦戦したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝[...]1797年4月にはウィーンへと迫り、同年4月にはナポレオンは総裁政府に断ることなく講和交渉に入った。[...]フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得して、いくつもの衛星国(姉妹共和国)を建設し、膨大な戦利品を得た。[...]12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられた。(28才)」
なるほど~、はじまりはそうだったのですね...。
そして、フランス革命が、当時のヨーロッパ諸国に与えたインパクトと危機感で、
Guerres de la Révolution française 『フランス革命戦争』(1792~1802)と呼ばれるフランスが周りのヨーロッパ諸国と衝突する戦争の時期があり、
その延長上に、Guerres napoléoniennes『ナポレオン戦争』(1803~1815)の時代が来たという訳なのですね…。
それにしても、フランス革命(とナポレオン??)がどれだけヨーロッパを揺るがしたのか、その後の世界を変えたのか、2020年の今になっても、影響を及ぼし続けているとも...。その引き金のひとつが天変地異から来た気候変動による食糧事情と考えると、2020年は歴史上どう伝えられていくのか......のでしょうね?
1881年 チュニジア侵攻
la conquête de la Tunisie par la France
https://fr.wikipedia.org/wiki/Conquête de la Tunisie par la France より
“La conquête de la Tunisie par la France a lieu en 1881, lorsque les troupes françaises pénètrent le territoire de la régence de Tunis, alors sous domination de l'Empire ottoman et source de nombreuses intrigues entre puissances européennesヨーロッパの大国間の多くの陰謀の源.
Le protectorat, instauré à la fin des combats et de la répression des révoltes, s'achève en 1956 avec l'indépendance de la Tunisie.”
*le protectorat (n.m.)
チュニジア侵攻
https://ja.wikipedia.org/wiki/チュニジア侵攻 より
19世紀の地中海沿岸の勢力図は、オスマン帝国が弱体化しつつある中、フランスが勢力を伸ばす状況にあった。1830年のアルジェリア侵略ではチュニジアの隣国にあったオスマン帝国領アルジェリアを支配下に収めてフランス領アルジェリアが成立しており、その延長として行われた軍事行動である。
やっと今週の本線にもどりました♪
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ナポレオンがエジプトに従軍したとき(1798 – 1799)、フランス(総統政府??)がアルジェリアのデイ(太守)と契約して、フランス軍に必要な小麦の補給をアルジェリアのデイ(太守)に出してもらったんだけど、Les caisses du Directoire?? sont vides et le paiement est ajourné.(Directoire??の金庫が空っぽだったから??、支払いを延期した)。権力の座に就くと、ナポレオンは支払いの要求を戦争(どの戦争??)が終わるまで延期した。王政復古になると、ルイ18世の政府はその金額の半分は返済したが、あとの半分はbloquée dans le cadre d'un arbitrage juridique(法的仲裁の枠で??ロックされて)1830年に返済されることはなかった。
そしてアルジェリア出兵を決めた後すぐに、シャルル10世はTrois Glorieuses 栄光の三日間で退位して、フランスは絶対王政から立憲君主制に変わるのだけれど(そうらしい)、政策は引き継がれ、1834年にはアルジェリアを併合したのだそうです。
*最後通牒 ultimatum (n.m) ; C’est un ultimatum ? < ulitme (adj.)
次は、ちゃんとゴガクしよう!
革命から19世紀前半のフランスは登場人物が多過ぎです...。
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