26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 1 |
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 |
30 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
書店で出版社の広報誌を入手するのが好き。
今日は珍しくキリスト教文書センターの「本のひろば」6月号が置いてあった。
もらってきて、開いてびっくり。
懐かしい先生が対談で登場されていた。
私を洗礼に導いて下さった牧師(当時は副牧師)。
前回ロシア語の授業で英語を多用されるとさっぱりわからないと愚痴めいたことを書いたが、私の通う教会の先生たちもアメリカやイギリス・ドイツへの留学組が多いので、説教の中に「英語で言うと~なのですが」といった解説が多い(勿論聖書の原語であるヘブライ語やギリシャ語・ラテン語の解説も多い)。
信者の側も、外国語の解説まじりだとよりありがたく思っているのでは?という気がしないでもない。
一方で、あれが入るから説教が長くなってだれるのだという批判もあったりする。
まあ、ほどほどにね、先生方。
その懐かしい先生は、お話の中に英語を多用されるということはなかったのだけれど、今でも印象深く思い出すのは、「その部分は英語だと“I believe; help my unbelief!” となって、簡潔で力強くて好きなんだ。」とおっしゃっていたこと。
マルコ福音書9-24である。
「本のひろば」6月号にはまた印象的な英語のフレーズが書かれていた。
先生がアメリカの伝道者に言われた言葉だそうだ。
Don't be afraid to become a minority.
「日本においてキリスト者になるということは、一種のマイノリティーになることです。」
確かにそうなのだ。
日本において、圧倒的民族マジョリティーの日本民族で、普通に日本語を話してきた自分が、なぜか圧倒的マイノリティーになっていたのだ。
さきのマルコ9-24は
Верую, Господи! помоги моему неверию.
(「信じます、主よ!私の不信仰をお救いください。」と、呼びかけの言葉が入っている。)
「マイノリティーになることを恐れないで。」は
Не бойтесь быть меньшинством!
だろうか?статьよりはбытьがいいような気がする。