今日は久しぶりにホームシアターで映画を観た。ケーブルテレビのオンデマンドで今月末で終了予定だった「100,000年後の安全」というドキュメンタリー映画だ。
震災後、この映画を知って見に行こうと思ったときにはもう遅くてほとんど上映終了していた。それでも渋谷ならいけなくはなかったけど、結局行かずにいた。そんなとき、オンデマンドでやってることを知り、今日鑑賞したわけだ。
「オンカロ」というフィンランドにある最終処分場の取組と専門家へのインタビューで構成されたドキュメンタリー映画だが、その映像美と質問の的確さで最後まで見せる映画だった。
原発をイデオロギーをベースとした肯定・否定というレベルでなく、いまある原発の最終処分がどのように行なわれようとしているかを追いながら、未来の誰かに問いかけるナレーションが挟まれる。
まだ誰もやったことがなくやりかたも決まっていないが、やらなければならない放射性廃棄物の最終処分を、フィンランドでは地底深くに埋めて解決しようとしている。
10万年後の世界に対してこの危険性を伝えられるか否かを議論する。何らかのメッセージを残すべきという意見もあれば、完全に忘却のかなたに忘れられるよう語らないほうがいいという意見もある。
人類の好奇心は「入るな!」と書かれた古代遺跡には確実に入るだろう。今後科学が進歩するとも限らない。6万年後には氷河期が来るかもしれない。10万年前のネアンデルタール人とコミュニケーションが取れないように、10万年後の人類ともコミュニケーションは取れないのではないか...。
ラスト近くにナレーションが入る。「忘れなければならない話だということをずっと忘れないよう伝える」
フィンランドのこの取組は2100年までの計画だという。原発の最終処分まで含めた実働期間は100年、21世紀のみということだろう。そこで発生せざるを得ない廃棄物を10万年かけて安全に捨てる方法のひとつを提示している。
人類の欲望、そしてエネルギー闘争は、もっとはやく破滅を迎えると私は思う。10万年後、この地球があるとは思えない。1万年後ですら怪しい。
そのような破滅への疾走をいま原子力というエネルギーの化け物を使ってはじめてしまった人類はもう後戻りできないのだと思う。数千年かけて伸びた樹木も一瞬で切り倒され木材になる。タイムスパンの話はいまの人類には無力かもしれない。
だとしても「やめろ」「殺すな」という立場は崩せない。いま目の前に崩壊した原発があり、被災を目のあたりにしながら、それでもやるという破廉恥な人々に加担したくはない。
侵略をやめられない人々がいても侵略をやめろという側に立つ。生物兵器が作れても生物兵器は作らないという側に立つ。それがヒトの理性というものだと思う。