その寿命の長短は別にして、藤原道長は長兄の道隆よりもすぐれた宮廷政治家だったかもしれない。
紫式部は清少納言よりもすぐれた文学者で、おまけに女房としての才覚もまさっていたかもしれない。
それでも、四納言の一人である藤原行成が、道長の意向に逆らってまで不遇の定子中宮のために奔走したのも事実だ。
定子中宮が諸官の敬意を集めていたこと、加えて、その女房であった清少納言とそれらの心ゆかしい殿上人との友情を抜きにはありえなかったことだという気がする。
それで報復人事を受けたりはしないと安んじていられる道長の度量の大きさへの信頼もあっただろうが。
東京国立博物館の「和様の書」展で、「御堂関白記」の手跡をみながら、そんなことを考えていた。
一條院の御時、皇后宮かくれたまひてのち、帳の帷の紐に結び付けられたる文を見付けたりければ、内にもご覽ぜさせよとおぼし顏に、歌三つ書き付けられたりける中に
536 夜もすがら契りしことを忘れずは戀ひむ涙の色ぞゆかしき
537 知る人もなき別れ路に今はとて心ぼそくもいそぎ立つかな
長保二年十二月に皇后宮うせさせたまひて、葬送の夜、雪の降りて侍りければつかはしける 一條院御製
543 野邊までに心ひとつは通へども我がみゆきとは知らずやあるらん
(後拾遺和歌集)