律呂调阳
[뤼이 뤼이 툐 야앙]
律呂調陽
율 여 조 양 = tune,music,choose,sunshine
千字文の4文字は一応中国語のピンインで入力するようにしてきたけど、律呂はできなかった。uのウムラウトだったから。使ってるFEPは普通の MS PINYIN IME 3.0なんだけど、これでuウムラウトって入力できるのかな?
律と呂とは、陽調と陰調に対応する。メジャーとマイナーだ。発音は同じだけど四声が違うようだ。それぞれ6つの調があり全部で12律。バッハか(笑)。
調陽は陰陽を調えること。1年が12ヶ月に調えられているのを見ても、6とか12という数字で時間的、空間的な一周期をあらわす(仕切る)慣習があるようだ。
6といえば最初の完全数だ。完全数とは、その数字自身を除く約数の総和がその数字自身になるような数字。6の約数は6以外が1,2,3で、その総和1+2+3=6となる。
子どものころ完全数や魔方陣に惹かれていた。タロットカードも好きだった。タロットも大アルカナと小アルカナカードがあり、正の位置と逆の位置とで解釈が異なる。
占いとは「信じるか信じないか」ではないとボクは思っている。占いとは論理を超越した偶然との出会いを楽しむゲームであり、その場そのときのカードの組みあわせそのものだけが唯一の真実なのだ。
カードそれ自体の出目がひとつのシナリオ、物語を作る。それはまだ現実世界と因果関係を持たないピュアな物語だ。だが、その物語を受け止めた人(占われた客)がそこからその物語に支配されるか否か、あるいはその物語を利用するか否かを選択的に実践していく。
過去とつなげて「当たる当たらない」という立論そのものに間違いがある。過去との関連づけもまた、そのカードの組み合わせが出現した後に再構築された「過去」という記憶の現在の姿でしかない。
そこから別の物語が始まるかどうかは別次元の話なのだ。そこが心霊現象などとは決定的に異なる。占いが太古から絶えないのは、論理で解決できない諸問題を乗り越えるための、ひとつのきっかけを与えてくれるからだと思う。カードにはあいまいさがない。それを解釈する人間のあいまいさが物語を生む。だからこそ前進できるときもあるのだ。
6つの陽と6つの陰とで世の中が出来ている。世界を理解するうえでこのようなモノサシがいくつもあり、人間ってヤツはこうやってなにかのモノサシをつかって仕切ることが好きな生き物だと感じる。
仕切られるとなんとなく理解できたような気分になり信憑性が増す。モデリングもそのひとつだろうし、黄金率、フィボナッチ、ナントカの法則などなど、それらはなにか真理を指し示す光に見えたりする。
しかしこれは危険だ。モデリングされたもの以外が見えなくなる。思考停止に陥る。語学にもそういうところがあり、これが正しい、これが間違いと仕切るのは言葉の持つ表現力を狭めてしまうのではないか。
私が学生の頃の日本で売れてた学校英語の学習文法書はネイティブには17世紀の英語だと酷評されていた。間違いではないが現代では使わない表現もござろう(笑)。
しかしまたそこを恐れていては一向に語学は身につかない。なにかの定型にはめてでも土台を作ることが大切だ。デメリットばかり並べ立てても進歩はない。メリットだけでも危険すぎる。
物事にはメリットもデメリットもある。それは回りまわって陰陽、律呂につながっていく。それらを包含したうえで調えていく作業こそがあらゆる学びに共通のコツだと思う。
参考書の例文も占いのようなものだ。単なる出発点に過ぎない。生かすも殺すも自分次第ということだろう。
反面教師にできればいいんでしょうけれど、対抗軸も育ってないから...。
ここがスタート地点にもなるということ。
経験を語ったり、書き残したりすることも重要な事で、できるだけ
正確なものを残して、判断していく(時には大変な決断もしなくてはいけない)
後の世代の役に立てたらいいですよね。生きぬく力を信じたい。
そう思ったら少し落ち着きましたが、それにしても
上に立つ人が言う事をコロコロ変えていたのでは話になりません…
個人の力ではもうどうしようもない世界では、命を基準に価値判断するしかないのかなと思います。ただ戦争や震災と原発が異なるのは、まったく無意識のうちの恐怖なので命すら意識できないことですね。これから数年経てば情報は風化し、そのさらに数年後に体調に異変を来たす。その頃には責任者はもういない。そういう恐怖。確かに不気味です。
その出発点に生きてることを忘れないというのが大切だと思ってます。経験は語ることが出来ますから。
どのように出てくるか、測り知れないところに不気味さがありますね。
それでも日常を取り戻して日々を過ごしていますが
あの事態から何も学べなかったら、人としてどうだろうか。
こどもたちに何を残してやれるんだろう。
答えが見つかりません。
日本の借金はもう返せないし政治は信任を得ていないし放射能は消えないし、現象面だけだともう崩壊してるともいえるんですが、それでも生きながらえているのはどうしてなんだろう、もう誰かの壮大な物語に組み込まれていて終わるに終われない、それだけにいつか示現すると大崩壊につながる物語なんじゃないかと思って空恐ろしい今日この頃です。
この頃の、とりまく環境の厳しさを感じていたので外国語が出来た方が絶対にいい
と思ったことも学習を始めた動機のひとつでした。
峠を越える、終焉などの言葉を聞くと、高校の時現国の先生が
「物事は完全をめざすと限りなく球体に向かっていき、完全な球体になると
そのままで居られずに今度は少しずつ崩壊していく…」という話をしていたのを
思い出しました。ネバーエンディングストーリーでは崩壊した後に一粒の砂から
物語が新たに始まりましたが、人間の知恵で物語はずっと続くのでしょうか。
いま、個人的には古代ローマ以降、没落していく先進国の末路がどのように推移するのかに興味があって、パックス・ジャポニカの終焉と東南アジアの興隆をどう捉えるかを考えているんですよ。もちろん老衰国でもガツガツせずに身の丈で暮らす幸せというものもあり、悲観的には捉えてないんです。現実として早めに受け入れてどう対応していくかを考えてます。外国語もその一環といえそうです。
ちょっと特別な一帯だと思ってましたが、米相場発祥とは知りませんでした…。
図書館は第15代住友氏の寄付でつくられて、外観はルネッサンス様式、
内部はバロック様式を取り入れて建築されてるそうです。
写真のホールの天井は丸いステンドグラスでした。教会みたいな。
海外の図書館カレンダー、書斎に掛けるのにぴったりですね。
図書館で借りた韓国語の言語の本は15年前に発行されたものでしたが
最初に『これからはアジアの時代といわれている。特に二一世紀は日本や韓国、
中国など、東アジアのパワーが世界舞台に大きく浮上する、新しい時代とも
いわれている』と韓国人の著者が書いていました。
世の中は複雑そうに見えて問題の本質はシンプルだったりしますよね。
でもそのシンプルさが本質なのか虚飾なのか、そこの判断を間違えるのが人間で。
あるいは正解なんてのは無いのかもしれないし。
物語はどのようにでも転がります。そこが人間社会の面白いところでしょうね。
写真は外国の図書館かと思ってました。モダンな図書館ですね。
うちにも今年は海外の図書館のカレンダーが掛けてあるんですよ。
某製紙業者さんのものです。電子書籍じゃこうはいかないですね(笑)。
中之島といえば米相場発祥の地ですね。
日本の商業の先進性を象徴する地でもある場所だと思います。
書いておられるので文章に血が通っています。
それに、難しい内容を読み易く書くことって、実は大変ですよね。
「あんまりほめたらあかん」(独自の解釈)と前に言われたから
小出しにしております(^^)
タロットは小学校の高学年頃にマイブームで、大タロットだけ使って
家族や近所のお姉さん、幼なじみ達を占っていました。
おじいちゃんが買ってくれた手品セットの手品よりウケてました。
空想癖があったので、占う=物語を作る、が楽しかったんですね。
写真は府立中之島図書館の階段です。木の手すりに一目ぼれして撮りました。
無知を反省し「本を読んで賢くなりたい」という決意表明です(^^)
清濁併せ呑む感性というか寛容さが人間の味になっていくみたいなことも考えつつ。
一般的にいう「占い」ってのはまったく“信じない”んですけどね(笑)。
タロットはいいですよね。デザインがいい。
正位置、逆位置の組み合わせでいろんな物語を作れるとこも。
私が人を占うときは古代ケルト十字法という方法で1時間くらいかかってました。
それはひとつの物語を作る作業でしたね。
ものすごく疲れるのでもうやらないですけど。
KANNAさんの写真、変わったんですね。
日記の文中にバッハがでてきましたが、音楽でたとえるなら
モーツァルトの曲みたいです。メヌエットなどで「えっ、その音にとぶの?」
みたいな譜面なのに、奏でてみると作品として完成度が高くてすごい、という。
タロットカード、私も好きだったので占いの部分もすごくおもしろかったです。
絵が奇麗なことにも魅かれましたが、良いカード、悪いカードが逆に出たら
意味も変わってしまうところに、子ども心に奥深さを感じていたのを思い出しました。