ラジオ英会話 「話がある」にしばしば加えられるのが、「秘密ですよ」という念押しです。「厳密にあなたと私の間(にとどめて)」ということです。
〇This is strictly between you and me.
これは絶対にここだけの話です。
① You cannot tell anyone.
誰にも言ってはいけません。
This is not to be shared with anyone.
これはだれにも話してはいけません。
I’m telling you this in confidence.
私はこれを内密で話しています。
② This must stay private.
これは、内密にしてください。
I can’t have this getting out.
これが外に漏れるのは困ります。
Promise me you won’t stay a word.
何も言わないと約束して。
③ Can you keep a secret?
秘密を守れますか?
You must promise to keep it to yourself, OK?
誰にも言わないと約束しなくてはなりません、いいですか?
Please keep it under your hat.
秘密にしておいてください。
Keep your mouth shut about it, OK?
その件については黙っておいて、いいですね。
Typical Expressions in Action
1、ジュンについて面白いことを聞きました。これは絶対にここだけの話ですよ、いいですね?
I heard something juicy about Shun.
This is strictly between you and me, OK?
2、あなたは秘密を守れますか?
ステラとマイクのことなんですが。
Can you keep a secret?
It’s about Stella and Mike.
3、私たちの夏のボーナスの額がわかってしまいました。
誰にも言わないと約束しなくてはなりません、いいですね?
I found bout our summer bonus amount.
You must promise to keep it to yourself, OK?
The last place to visit on this trip was Sekigahara.
If it weren't for COVID-19, I would have been able to reach it by walking along the Nakasendō two years ago. It was a pity that I was close to Gifu.
In preparation for this battle, Ieyasu thoroughly cut down the warriors in the Toyotomi administration who had hostile feelings toward Ishida Mitsunari.
On September 15, 1600, Ishida Mitsunari 6,000 troops, who rode first to Sekigahara, took up positions on Mt. Sasao, and the Western Army was said to have a total of 100,000 troops.
It was considered to be more advantageous than the Ieyasu Eastern Army.
On the other hand, Fukushima Masanori, the spearhead of the Eastern Army, had an antipathy towards Ishida Mitsunari, but did not fight easily.
However, Ii Naomasa, one of the Four Heavenly Kings of Tokugawa, took the lead first, and the battle began as if the panicked Fukushima army was fighting fiercely.
As a result, it seems that 15,000 Kobayakawa Hideaki of the Western Army sided with the Eastern Army, which decided the victory or defeat.
It seemed that there were many wait-and-see feudal lord in the Western Army.
この旅の最後の見学地は「天下分け目の関ケ原」でした。コロナさえなければ、私は2年前に中山道の街道歩きで到達できたはずの所です。岐阜の近くまで来ていたのに残念でした。
家康はこの戦いに向けて、豊臣政権の中で石田三成に敵対感情を持っている武将たちを徹底して切り崩しをしました。
1600年9月15日関ケ原へ1番乗りをした石田三成6000隊は笹尾山に陣取り、西軍三成軍は総勢10万人とも伝えられ、文句ない陣構えでした。東軍家康軍より有利と思われていました。
一方東軍の先鋒を任された福島正則は石田三成に反感を持つものの、なかなか戦いをしかけませんでした。が、徳川四天王の一人、井伊直政がまず、先陣を切り、先をこされて慌てた福島軍が猛烈に戦いをしかけたという感じで合戦は始まりました。
結果的には西軍の小早川秀秋15000人が東軍家康側に寝返ったことが勝敗を決めたようです。西軍三成軍には様子見の大名が多かったようでした。
写真 笹尾山の三成の陣跡 ここの頂上からは関ケ原の全景がみられました。
三成はいい所に陣を張ったという感じでした。
家康は百通を超える手紙を諸将に送り、徹底して西軍(三成軍)の切り崩しをしました。電話もメールもなく、手紙しかなかったと思われる時代ですから手紙は有効な手段でした。わずか半日で勝敗がついてしまった関ケ原の合戦、家康の采配が功を奏しました。
一方、どちらにつくか迷っていた毛利氏などはなにもせず、戦いがおわると国に帰りましたが、この結果領国は大幅に減じられました。
You went to Mt. Sasao where Mitsunari Ishida's camp was.
American soldiers in the Meiji period said that the Western Army would win the Battle of Sekigahara.
But in reality, it was Ieyasu Tokugawa who won.
The Mori family is also a large daimyo.
Ieyasu reduced the territory of the daimyo Mori family.
The Mori family is the head of the Five Elders.
The territory of the Mohri family was reduced.
I wonder how this could have happened.
手紙が有効な手段だったのですね、ドラマに出てくる直筆の手紙の字の達筆なこと、昔の武将たちは読めていたのですよね。
コメント有難うございます。
天下分け目の関ケ原、1600年、私の乏しすぎる知識です。
Pretty naoko さんが日本史を教えてくださる先生なら、私はきっと歴史に興味を
持ち一生懸命学んだのに です。
でも今、こうやって naoko さんの説明を読んで天下を我がものにした家康の采配の
あり様を学べています。有難うございます。
楽しく学べたにちがいありません。
小早川に一杯食わされ
さっさと逃げる毛利
戦場強行突破の島津
恨み知るや関ケ原
West General Mitunari Ichida was totally shocked.
Kobayakawa betrayed him to help Iyeyasu.
Mori soldiers ran away as soon as possible after the battle.
Shimazu soldiers on a horse ran through the middle of battle fields.
Sekigahara is a core of the grudge to Mitunari.
地の利は三成軍にあったはずですが、当時も情報戦と人心の掌握は重要で、この点では苦労人の家康は非常に優秀だったのですね。 三成は頭は良いのですが、実戦経験に乏しく人の心を知り人を動かすことは苦手な人のような気もします。
この関ケ原の地で、多くの大名のその後の命運が決まりました。天下分け目の決戦の地は日本史の中でも重要な場所ですのでこのお写真で知ることができて感激しています。
歴史の旅の最後は 『天下分け目の関ケ原』だったんですね。
この地に立たれたp.naokoさんの 感動が 伝わってきます。
わかりやすく説明してくださって
ありがとうございます。
歴女のp.naokoさんの楽しい歴史の旅は
休憩しながら これからも
続くでしょうね。
お話 楽しみにしております。
関ケ原IC降りて国道365号を北に向かって、伊吹山に行く途中にありますね。その時は伊吹山がメインでしたのでここは立ち寄っていませんでしたが道沿いは幟旗が何本も立っていたのを覚えてます。
一度は行ってみたいですね。
旅の終わりは関ヶ原ですか?
見渡せる地に立たれたnaokoさん、感慨深い物があったのではないですか?
石田三成は敵の多い、人望の低い人物だったようですね。別の見方をすると大勢の男に嫉妬される有能な人物だったのでしょうか?
茶々に会うまで秀吉にずっと子供が出来なかったと言うのが、又出会いですね。
この時代の歴史は公文書、私文書や手紙、書状で膨大な研究がなされているのでしょうね。
古典文学は写本も途切れ途切れ、散逸あり、想像と推測でかなり補われ虚構と願望、主観が入り混じっている印象ですが。研究者の文学作品のような。
家康の切り崩し作戦がなければ兵力は西軍が圧倒していますね。若い秀頼に対面した家康がその体躯と人物の大きさに恐れを抱いたという話を聞いたことがあります。三成、秀頼政権では平和は来なかったでしょう。勝者、家康の歴史観しか知りませんが。
いつも日記とても楽しいです。