※ caption : card to pick up (esp. hyakunin isshu karuta) Harumichi no Tsuraki
by Peter MacMillan (百人一首カルタ・取り札)
12/18(水)
「山川に風のかけたるしがらみはー」
英語で読む百人一首 ピーター・J・マクミラン
不思議の国の和歌ワンダーランド 第32番
2022年9月23日 京都新聞デジタル所載
山川に
風のかけたる
しがらみは
流れもあへぬ
紅葉なりけり
(百人一首カルタでの英訳)
The weir that the wind
has flung across
the mountain brook
is made of autumn's
richly colored leaves
Harumichi no Tsuraki
[現代語訳]
山中を流れる川に風がかけた柵というのは、流れきることができない紅葉であったことよ。
* 歌は新編国歌大観の「百人一首」を原本とし、表記は適宜、かなを漢字に改めています
💠 新訳
The weir that the wind
flung across the mountain brook
is made of autumn's
richly colored leaves
that can no longer flow.
🗻🌬️🌬️🌊🌊🌊🍁🍁🍁🍁🍁🍁🍁🛖
巧みな発想、情景美思い浮かぶ
この歌のポイントは流れずに溜(た)まっている紅葉を「しがらみ」に見立てたことにある。「しがらみ」は、現代語では「人間関係のしがらみ」などというように、まとわりつくもの、自由になれないものの意で使う。ただ、本来のしがらみは流れを堰(せ)き止めルために立てた柵のこと。川の中に杭(くい)を打ち並べ、竹や柴などを絡み付けたものである。現代の意味は、この本来の意味から転じたものなのである。
しがらみは和歌によく詠まれた。情景としてしがらみを詠んだ和歌も残されているが、別のものをしがらみに見立てる和歌も多く詠まれた。たとえば、恋に悩んでとめどなく溢(あふ)れる涙を、袖でおさえてとどめることを、「袖のしがらみ」と言った。今回の和歌でも、流れようとしても流れきれずに留(とど)まり続けている紅葉のさまをしがらみに見立てている。古くから、この歌の「風のかけたたるしがらみ」という表現は高く評価されてきた。色鮮やかな美しい紅葉が、風に吹かれるまま、川に何枚も集まっている。その情景を目にした作者は、それをしがらみに見立てて詠んだ。発想の巧みさと、描き出される情景の美しさがたいへん魅力的な歌だ。
英語に訳しても極めて美しい。先日紹介した第29番「心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花」は霜を菊に見立てたものであった。今回の歌でも同様に、見立てという技法が用いられている。この「優雅な混同」について、第32番では、最後の「けり」に、作者の詠嘆する気持ちが集約されている。しがらみは本来人工物であるが、風によって、紅葉が自然のしがらみとなっている。その感動を表すため、英訳には「Ah!」などの感動詞を入れようかとも思ったが、現在の訳でも感動は十分に伝わると考え、結局入れなかった。なお、新訳の5行目は「流れもあへぬ」、つまり流れてゆくことができない紅葉の様を表現した。
この和歌は、京都から滋賀へ、山を越えてゆく道すがら詠まれたものである。京都の北白川から比叡山と如意ヶ嶽の間を抜け、滋賀の里に出る山道だ。私も少し前に、古典文学に詳しい友人、三井寺長吏の福家俊彦さんに案内してもらい、この経路を直接見てきた。『百人一首』の司書の和歌の作者、天智天皇が創建したと言われる崇福寺跡もあり、当時の賑(にぎ)わいが偲(しの)ばれた。三井寺と崇福寺は、大津が都であった当時にともに創建された、関係の深いお寺である。のちに崇福寺は廃れたが、三井寺は長く続き、明治期までは現在の寺院を中心として、今よりもずっと広い範囲が三井寺の所有であったという。
山道を通って、京都から出て行く。当時の人々は、都を思い出したり、これからの旅路を不安に思ったり、また反対に都が近づいてきたことに安堵(あんど)したりしたのだろう。様々な思いが交錯したかつての旅路を見て、当時の人々の気持ちや世界観を鮮やかに想像することができた。
詠み人 春道列樹
はるみちのつらき 生年未詳。920(延喜20)年没。春道姓は物部氏の末流。壱岐の守に任じられたが、赴任前に没した。