ラジオ英会話 関係代名詞節修飾で使われる補助要素の関係代名詞には、thatのほかwho, whichもあります。
F: Who is the person laughing over there?
あそこで声を上げて笑っている人は誰だろう?
J: That’s Asako-chan.
あれはアサコちゃんね。
She’s the comedian who just performed.
彼女はさっき舞台に出ていたお笑い芸人よ。
F: I did not understand her jokes.
彼女の言うジョークは理解できなかったけど。
J: You should try to laugh, Frankie.
フランキー、あなたは笑うように努力しなくちゃ。
I like people who laugh a lot.
私は、よく笑う人が好きよ。
F: But Dr. Stein has not programmed me to laugh.
でも、スタイン博士は、私を笑うようにプリグラムしていないからね。
J: He should.
彼は、そうするべきよ。
We should talk to him.
私たち、博士に相談する必要があるわ。
F: I am not sure I want to laugh.
私は自分が本当に笑いたいのかわからないな。
J: Just try laughing once.
いいから、1回、笑ってみせて。
F: Ha…ha…ha.
ハ・ハ・ハ。
J: That doesn’t sound real.
それだと本当だと思えないわ。
Words & phrases
・perform 演じる
・try to~ ~しようと努力する
・sure 確信して
Ten years after leaving Japan, when Manjiro was 24 years old, he returned to Japan with the desire to be a Japan citizen and to be useful to Japan, but the interrogation took about two and a half years.
Manjiro returned to his hometown of Kochi and was finally reunited with his mother and siblings, but in 1853, Manjiro, who knew English and American affairs, was called out to Edo to deal with Perry, who had come to Uraga with four black ships.
After that, he became a samurai from the status of a fisherman and became a direct attendant of the shogunate. At the time of the conclusion of the Treaty of Amity and Friendship between Japan and the United States, he offered to interpret, but it was suspected that he would interpret in favor of the American side, so the negotiations between Perry and the Japan side were conducted in Dutch instead of English.
In Edo, he met and married a woman named “Tetsu” through the introduction of Egawa Tarozaemon, the daikan of Izu Nirayama.
Their descendants have inherited the Nakahama family from generation to generation, and it continues to this day.
There is a story that Egawa Tarozaemon loved Manjiro like his own child and let them live with him.
日本を離れて10年、万次郎が24歳の時、「自分は日本人でありたい、日本の役にたちたい」そういう思いで日本に帰ってきましたが、取り調べは約2年半もかかりました。
故郷高知にもどりようやく母や兄弟に再会を果たした万次郎でしたが、1853年、4隻の黒船を率いて浦賀にやってきたペリーの対応のため、英語とアメリカ事情を知っている万次郎は江戸に呼び寄せられました。
その後、漁師の身分から武士になり、幕府の直参になりました。
「日米和親条約」の締結の時は通訳を申し出ましたが、アメリカ側に有利な通訳をするのではないかと疑われ、ペリーと日本側との交渉は英語ではなくオランダ語を介して行われることになりました。
江戸では伊豆韮山の代官江川太郎左衛門の紹介で「鉄」という女性と知り合い、結婚しました。江川太郎左衛門はわが子のように万次郎をかわいがり、一緒に住まわせたという話が残っています。
写真 講演会のテーブルに飾られた花 バラが咲いていて良かったと思いました。
波乱万丈な人生でしたが、子孫に恵まれ、今もホイットフィールド家の子孫の方たちと交流を深め、日米の友好の絆を作っているとのことでした。
耳からだけ入れた万次郎の英語の紹介もありました。
わら → water さんれい→Sunday などいくつかクイズ形式で話されました。
孫が小さい頃、「外国人が“ヨーカン”と言ったよ」と言っていましたが、それは、
“You are welcome.”でした。そのような類でしょうか。
居酒屋「ジョン万次郎」というお店があり、「あなたのお父様、もうかっていますね。」と言われたことがあるという話もありました。全く関係ありませんと笑いながらおっしゃっていました。
耳からだけで英語を理解するのは大変だったと思います。今までしたことのない発音を真似るのは、難しいものです。
テーブルのお花の色、とても上品ですね。
鎖国が行われていた江戸時代、日本に戻る選択をしたジョン万次郎さんは勇気のある方だったと思います。日米友好の礎を築いた人としてこれからも記憶にとどめておくべき方ですね。
バラは🌹やっぱりステキ💓ですね。
耳から聞く英語、懐かしいです。
勤めていた会社で、偉い上司が、ワラプリーズと
よく女子の社員にお願いしていたことがありました。
子供の耳はおもしろいですね。中1の時、英語の先生が授業の終わりに毎回”ザッツォーフォーtoday”と言っていたのですが、それが”That’s all for today. “だとわかったのは、高校生になってからでした。
おはようございます😃
素晴らしい講演会でしたね。
万次郎、ホイットフィールド家、ペリー・・・
大きな歴史の流れの中で 偶然に そして 必然的に
出会われたんでしょうね。
もうすぐ 飛行機に乗られるそうですが
『p.naokoさんのキラキラ旅日記』 楽しみにしております。
どうぞ お気をつけて 行ってらっしゃいませ。
万次郎の意志の強さもあったのでしょうけど、周りの人たちにも助けられたようですね、人柄でしょうね。
バラの花は豪華で華やぎますね。
日記のジョン万次郎の話を通じて、1800年代の日本や遠い異国のアメリカに、しばし思いを馳せました。「鉄」さん、サッチャー元英首相のように、強くて聡明な女性を連想しました。
華やかさを演出してますね。
こどもの感覚はするどいですからね。“You are welcome.”でしたか、You canかとも浮かびました。
高尾山の人工林でもっとも古いのが江川太郎左衛門が植林した 杉(江川杉)