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ilyaさんの おぼえた日記 - 2013年6月14日(金)

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おぼえた日記

2013年6月14日(金)のおぼえた日記

848/06/23 - 1848/06/25 の六月蜂起に触れたので、ことの順序で、パリ・コミューン (1871/03/26 - 1871/05/28) を紹介しよう。
マルクスは、これを「The Civil War in France, フランスの内乱」において、

The Commune was formed of the municipal councillors, chosen by universal suffrage in the various wards of the town, responsible and revocable at short terms. The majority of its members were naturally working men, or acknowledged representatives of the working class. The Commune was to be a working, not a parliamentary body, executive and legislative at the same time.
The whole of the educational institutions were opened to the people gratuitously, and at the same time cleared of all interference of church and state. Thus, not only was education made accessible to all, but science itself freed from the fetters which class prejudice and governmental force had imposed upon it.
The Communal Constitution would have restored to the social body all the forces hitherto absorbed by the state parasite feeding upon, and clogging the free movement of, society. By this one act, it would have initiated the regeneration of France.
It was essentially a working class government, the product of the struggle of the producing against the appropriating class, the political form at last discovered under which to work out the economical emancipation of labor.

コミューンは、市の各区での普通選挙によって選出された評議員で構成されていた。彼らは、責任を負っており、短い任期で解任することができた。当然のことながら、議員の多くは労働者、あるいは労働者階級の利害を代表する人々だった。コミューンは単なる議会ではなく、執行し立法する行動的機関でなければならなかった。
すべての教育施設は人民に無料で公開され、同時に、それへの教会や国家の干渉がいっさい排除された。教育の機会が誰にでも開かれたというだけではない。学問それ自体が階級的偏見と権力の利害への奉仕という足枷から解き放たれたのだ。
コミューン制度は、社会に巣食いその自由な運動を妨げている国家という寄生体のためにこれまで吸いとられていたすべての諸力を、社会体に返還したことであろう。これ一つをとっても、コミューンはフランス再生の序曲となったであろう。
コミューンは、本質的に労働者階級の政府であり、領有する階級に対する生産する階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった。

と分析している。

05/21 - 05/28 にかけての血の一週間で、ティエールを首班とする臨時政府が殺害した関係者及び一般市民の数は、1848 年のそれの 20 倍 (「捕虜を取らず、銃殺したため」って、なんか曖昧な書き方 in ウィキペディア)。

「1848年6月のブルジョアの残虐行為さえ、1871年の言いようのない凶行の前では色を失う。……ティエールとその血に飢えた猟犬どものふるまいに匹敵するものを見いだそうと思えば、われわれは、ローマのスラや二回の三頭政治の時代までさかのぼらなければならない。同じ冷血な大量殺戮、年齢や男女の区別をつけずに虐殺する同じ見さかいのなさ、同じ捕虜拷問の方式、同じ公敵宣言--、身を隠した指導者たちを一人でものがすまいとする同じ野蛮な狩りたて、政敵や個人的な敵をおとしいれる同じ密告、争いにまったく無関係なものまでも屠殺してかえりみない同じ無頓着さ。ただ一つ違っているのは公敵と宣言された者を一束にして片づけるミトライユーズ機関砲をもたなかったこと、そして彼らが『法律』を手にしておらず、また「文明」という叫びをその唇にのぼせていなかったことだけである」(「フランスの内乱」、原文略、和訳は http://kinpy.livedoor.biz/archives/22679128.html から引用。)

この頁には「戦闘によるコミューンの戦死者は女性・子供も含めて3万人、その後3万8千人が逮捕され370名に死刑宣告、410名に強制労働、7500人が禁錮または流刑に処された。」と記されている。

普仏戦争 (1870/07/19 - 1871/05/10) で無様な敗北を喫して国家の威信は地に堕ちていたし、50億フランの賠償金の支払いとアルザス・ロレーヌ (エルザス・ロートリンゲン) の割譲をもってプロイセンと講和条約を締結した臨時政府に対し、コミューンはプロイセンへの抗戦継続を表明していたなど、フランスのブルジョワジーとしても徹底的にやってみせる必要があったんでしょうね。

cf. http://leventseleve.seesaa.net/article/293558967.html

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ilya さん
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mkita さん、おはようございます。
毎日規則正しい生活をおくられているようでなによりです。
2013年6月16日 9時10分
mkita さん
0人
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おはようございます。日本は明治維新と言う社会革命以来
富国強兵の名の元に戦争を繰り返し、一応平和な社会に辿り着いています。
夜の街を歩けば、若者の宴会後の賑わいもあり駅も電車も人混みに溢れてます。
一方地方の町では、夜の町は歩行者も車も殆ど見かけない暗闇の世界です。
2089年には今年1歳になる孫娘が78歳のおばあさんになっていれば、
どんな社会を生きてきたか孫たちに語っているでしょうね。
人類の歴史は繰り返すと言われます、社会を維持する基本は教育でも宗教でもなく
家族内での語りが基本のような気がします。

2013年6月16日 7時4分
ilya さん
0人
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silver さん、おはようございます。
silver さんの日記も結構重い課題を、さらり描かれているではありませんか。
その方がよほどすごいと思います。
2013年6月15日 4時59分
silver さん
0人
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ilva さん すごい勉強量ですね! それと何故人間はこんなにも残虐になれるのかという
重い課題が提示されていて読んでいて苦しくなりました
2013年6月14日 23時45分
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