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「絶対の探求」、「知への意思」、「グラディーヴァ」の和訳作業で、日本語の表現力についてはいざ知らず、外国語運用能力の向上 (≒ 仏文、独文のストックを増やす) という意味ではあまり収穫を感じなかった。飽きてしまうという欠点はあるけれど、繰り返し繰り返し読む方が有効ではなかろうか。
翻訳という行為の学習効果に関して早急な結論をくだすのは控えようと思うが、この作業、時間はかかるし疲れるしで、日本語の文章の推敲に喜びを見出すのでなければ到底引き合わない、との結論は揺るぎそうにない。
深町真理子さんのように、一定部数の売れ行きが見込める作家・作品を押さえているのでなければ、雀の涙ほどの手数料で、良心的な訳を作成するのは、(たとえその翻訳者に充分な語学力があったとしても) 無理 (食っていけないの) ではなかろうか。超訳、いい加減訳、分からなければ切り捨てる、あるいは、自分の粗雑な頭で考えられる表現に置き換える、そうした訳が跋扈するゆえんであろう。
古典をその似姿で提供するよりも、カッパブックスに変身させるほうが楽 (手間隙がかからない) だろうし、売れ行きもいいかもしれない。
もっとも、劣悪な原作に劣悪な翻訳を施したって、劣化の程は高が知れているだろうから、総体としては問題ないのかもしれない。