※ caption : card to pick up(esp. hyakunin isshu karuta) Prince Motoyoshi
by Peter MacMillan (百人一首カルタ・取り札)
11/20(水)
「わびぬれば今はた同じ難波なるー」
英語で読む百人一首 ピーター・J・マクミラン
不思議の国の和歌ワンダーランド 第20番
2022年7月01日 京都新聞デジタル所載
わびぬれば
今はた同じ
難波なる
みをつくしても
逢はむとぞ思ふ
(百人一首カルタでの英訳)
I'm so desperate, it's all the same.
LIke the channel makers of Naniwa
whose name means 'self-sacrifice,'
let me give up my life
to see you once again.
[現代語訳]
こんなにも嘆き悲しんでいるのだから、今はもうこの身を捨てたのと同じことだ。難波にある澪標(みおつくし)の名のように、たとえこの身が滅んでもあなたに逢おうと思う。
* 歌は新編国歌大観の「百人一首」を原本とし、表記は適宜、かなを漢字に改めています
🌊🌊🌊✉️📨🚢
恋で身を滅ぼす姿「澪標」に重ね
元良親王が不倫の恋に身を焦がして詠んだ歌。親王はたいへんな色好みで、あちこちの女性に手紙を出し関係を持っていたことが、『大和物語』はじめいくつかの物語に残っている。そんな親王の恋愛遍歴のなかでも、この歌にまつわる恋がもっとも危険なものである。『百人一首』の出典と考えられる『後撰集』の詞書(ことばがき)によれば親王は「京極御息所(きょうごくのみやすどころ)」とひっそり関係を持っていたが、「事出で来て」、つまり世間にそのことが露見してしまった。京極御息所とは宇多天皇の妃(きさき)、それも天皇から望まれて入内(じゅだい)したお気に入りの女性だった。そのような人に手を出すことなど許されるはずもなく、露見してしまった以上は、逢うことは極めて困難である。この歌はそんな状況で彼女に送った歌なのだ。
「澪標(みおつくし)」は水脈を示す航路の目印のことであり、「身を尽くし」と掛詞になる。「今はた同じ」の「はた」は現代語の「また」と同じ意で、「今となっては同じことだ」という意味になる。何と何が同じかには諸説ある。(1)自身の悲嘆と「みをつくし」と同じであると解して「嘆き苦しむのは身を滅ぼすのと同じことだ」とする説、(2)「名」が同じく変わらないとして、「逢っても逢わなくてもすでに噂になったこの名は同じことだ」とする説(このとき、「難波なる」は「名にはなる」との掛詞と解釈される)、(3)「苦しみ」が同じと解して、「噂になって逢う苦しみと逢えない苦しみは同じことだ」とする説。今回は一つ目の説をとった。英訳の「it's all the same」とは、何もかも同じ、つまり生きていても死んでいても同じという意味であり、親王のどうしようもない嘆きの気持ちを表した。その気持ちとは裏腹に、ナ行の音がなん度も繰り返される調べは、穏やかで美しいと感じる。
📜🪟⚱️🪔🖌️ {英語ワンポイント}
祖国と母を思う「sacrifice」
今回の英訳で使った「sacrifice」(犠牲、苦しみ)を目にすると、必ず思い出すアイルランドの詩がある。W. B. イェイツの「Easter 1916」という詩である。アイルランドは当時イギリスの占領下に置かれていたが、独立を目指して反乱を起こした。その反乱をもとにした詩である。一部分を紹介したい。
Too long sacrifice
Can make a stone of the heart.
(中略)
Now and in time to be,
Wherever green is worn,
Are changed, changed utterly:
A terrible beauty is born.
あまりに長い苦しみは
人間の心を石にしてしまう
(中略)
今、そしてこれから、
緑色を身につけているところならどこでも、
変えられていく、すべてが変えられていく
恐ろしいほどの美しさが生まれるのだ
1916年のイースター蜂起に始まる反乱は、最終的にはアイルランドを独立に導いた。この時はアイルランド人にとって、祖国の苦難の歴史を思い起こさせるものである。また、私の母はしばしば自分の人生における苦しみを話すとき、この詩を引用していた。私にとっての「sacrifice」はこの詩を思い起こさせる言葉だ。そしてそこから、祖国の辛い歴史と母の苦悩に思いを馳(は)せ涙ぐんでしまう。
詠み人 元良親王
もとよししんのう 890〜943年。陽成天皇の第一皇子。ただし退位後に誕生したため、皇位継承とは無縁だった。