「知への意思 (M. Foucault)」 1. 我ら Victoria 朝の人間 (14)
C'est en ce point que je voudrais situer la série d'analyses historiques dont ce livre-ci est à la fois l'introduction et comme le premier survol: repérage de quelques points historiquement significatifs et esquisses de certains problemes théoriques. Il s'agit en somme d'interroger le cas d'une société qui depuis plus d'un siecle se fustige bruyamment de son hypocrisie, parle avec prolixité de son propre silence, s'acharne à détailler ce qu'elle ne dit pas, dénonce les pouvoirs qu'elle exerce et promet de se libérer des lois qui l'ont fait fonctionner. Je voudrais faire le tour non seulement de ces discours, mais de la volonté qui les porte et de l'intention stratégique qui les soutient. La question que je voudrais poser n'est pas: pourquoi sommes-nous réprimés, mais pourquoi disons-nous, avec tant de passion, tant de rancoeur contre notre passé le plus proche, contre notre présent et contre nous-mêmes, que nous sommes réprimés? Par quelle spirale en sommes-nous arrivés à affirmer que le sexe est nié, à montrer ostensiblement que nous le cachons, à dire que nous le taisons --, et ceci en le formulant en mots explicites, en cherchant à le faire voir dans sa réalité la plus nue, en l'affirmant dans la positivité de son pouvoir et de ses effets? \
私が、この一連の歴史的分析を定位しようと思うのはこの地点にである。この書はその導入部であると同時に、とりあえずの俯瞰図として意図されている。歴史上重要な諸地点に目印をつけ、理論的な諸問題のなにがしかについても素描をしようということだ。要するにある社会の cas (事例、症例、刑事事件) について、問い質してみようというわけだ。 その社会は百年以上に渡って、自分自身の偽善を喧しく咎めだて、自身の沈黙について冗長に parle (語り)、それが dit (言わ) ぬことを、こと細かに détailler (数え上げる) ことに執念を燃やし、己が行使する権力を告発し、己が機能させている法秩序から解放してやると約束する社会である。 私はこれらの言説とそれを担う意思とそれを支える戦略的意図を一渡り概観してみたいと思うのだ。私の質問は、何故私たちは抑圧されているのか、ではない、何故私たちはかくも情熱をもって、かくも憾みをこめて、自分自身の近い過去に、現在に、私たち自身に、自分たちは抑圧されていると disons (言いたがる) のかと、問いたいのである。 いかなる螺旋を通って私たちは、私たちは性を存在しないものとしてしまっていると断言し、私たちは性を隠していると、これみよがしに誇示し、私たちは性について沈黙を守っていると dire (言う) に至ったのか。しかも、それを、性を formulant en mots explicites (明示的に表現し)、性をむき出しの現実の中で見えるようにし、性が有する権力とその作用の positiveté (実定性、積極性) において性を確認するというやり方でもってしたのはなぜなのか。
拙訳の日本語の分り難さは別にして、原文が難解なのは Foucault さんが新しい概念を、新たな権力像を思索し、試作し、詩作したわけですから仕方がありません。
渡辺守章さんの名訳がすでに存在するのに、駄文を草する、そんなナンカイな ilya さんは、まあそつとしておきませう (笑)。
でも朝は難解な文章でとても性に目覚めることができませんでした。
2度寝の後に読んでも「知への意思」はやはり何回読んでも難解ですね。
日本語でも難しい文章を原文に挑戦されているilyaさんも難解ですぞ。
われ思う故にわれ在り何て言われていますが、思った事を文章にして
世間に公表する知識人も社会では貴重な存在なんですね。
先ずは他人に迷惑をかけないように生きていくように心がけます。
チョット余裕があれば他人の面倒をみれる程度で好いと思ってます。