昨日のアリバイ屋のことで、考えたことがあります。
プラトンやカントが説いた、“真・善・美”という価値があります。
“真”というのは、本当によくわからない状態だなって。
真実を価値として重んじることについて、
本当に大切なことなのだろうか?と思います。
誰も、真実なんて解らないんじゃないでしょうか?
何が真実で、何が不真実なのかを判断するのは
人間自身が勝手に想像して決めているのかもしれませんね。
記憶さえ、最近の科学では、
事実を勝手に解釈して、うその記憶として
定着することもあると認められています。
だから、真偽を紙切れで判断するのではなく、
その人と直接、対面して、心と言葉の対話をすることが
何よりも大切なのかなって気がします。
ですから、真実とは何かを追求するよりも、
自分と相手の双方の“利・善・美”を追求する生き方を実践していくことの方が
人間は重要だと考えますが、皆さんはどう考えますか?
忙しい中、コメントをありがとうございます。
日本語力の衰えを切実に感じるお気持ちよくわかります。
言語は次第に蓄積されていくものなので
思いだせるようにリハビリをすれば大丈夫ですよ。
ディベート部を創設されたりんさんからの挑戦状。
アメリカの知性は、開拓精神に満ち溢れていますね。
人間は、主観を主観する力(meta認知)も備わっています。
ですから真実に到達する事が不可能とは言い切れない可能性も
検討されるべきでしょう。
真実に到達した時に感動を覚えます。
でも真実そのものが価値ではなく
その真実が人に利益をもたらすと理解できるからこそ
価値があるのだと思います。
例えば、長年の疫学研究でも野菜や果物には
癌を防ぐ働きがあるという真実が証明されました。
植物がつくる化学物質のファイトケミカルに癌の抑制効果があるそうです。
その真実を活用して食生活に反映されれば、
自分の健康を維持できるという効果を利得することができます。
ディベート未経験の私ですが、お手柔らかにお願いしますね^^
おはようございます。^^
“やらぬ善よりやる偽善”想定外の発想をありがとうございます。
「美」も「善」も自分の感受、解釈、判断、信念に基づくものですから、
相手の立場に立った、「美」や「善」を想像して理解する、
称賛するという姿勢や行動を尊重されたいという意味で
とても共感できます。
“やる偽善”が自身にも相手にも“利”することができたなら
モットーとして意義があると思います。
でも誰もがわかる“偽善”をされると、人は失望することがあります。
「美」も「善」も普遍的な真理として見つけるのは至難の業かもしれません。
だからこそ、多様な「美」や「善」“感じる”ことができる“心”の
眼や耳、口を養っていけるよう向上していきたいです。