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人生まだ半分、37才からの外国語
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英会話教室や雑誌、ネットなど、ごく普通の環境だけで始められ、続けられる外国語学習の記録と秘訣を伝えていこうと思っています。
 

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人生まだ半分、37才からの外国語

2011年8月 2日 (火)

砂漠に埋もれた文字
ジンギスカン
北海道生まれの私は、モンゴル帝国の大ハアンである「チンギス・ハアン」を知る前に、羊の肉を野菜と一緒に炒めてつけだれで食べる「ジンギスカン」を知りました。
当時はラム肉ではなくマトン肉で作られることも多くて、大学から北海道にやってきた内地人(!)にとっては「どんなものかと思ってたけど、臭くて食えない」と言われたこともありましたっけ。数年前にブームになった問いには、結構驚きました。

先日、コメント欄で「のるらっそ」さんから話題に出た「ジンギスカン」は、モンゴル人でもなければ料理でもなく、80年代前半に活躍した西ドイツ出身の 音楽グループの名前です。
いま調べてみたら、全員がミュンヘンの出身だったんですね。当時はあまり意識していませんでしたが、たしか「ジンギスカン」という曲だったか、英語版とドイツ語版が同時にヒットしたりもしていました。もしかしたら、ベートーヴェンの第9交響曲を除けば、ドイツ語の歌を聴いたのは彼らのが初めてだったかも。

砂漠に埋もれた文字
さて、本家本元のジンギスカン、つまりチンギス・ハアンは世界歴史上最大の領地を獲得した征服者です。
クビライによる元寇もあって、残虐な侵略者として語られることも多いモンゴルですが、「モンゴル帝国の興亡」(杉山正明著、講談社現代新書)などによると「戦わずして勝つ」ために残虐ぶりを噂として流したという側面もあるようです。

この巨大帝国を築いたモンゴル人には独自の文字がありませんでした。
彼らは文書を書き表すには他国の文字、たとえばウィグル文字や中国占領後には漢字を借用していたようですが(文書を書き残す仕事自体を占領民に任せていた)、クビライ・ハアンの時代になって独自の文字を作らせ、公文書に採用しました。「パスパ文字」と呼ばれるものです。

この文字については、「砂漠に埋もれた文字」(中野美代子著、ちくま学芸文庫)で読んだ知識しか持たないのですが、クビライの信頼厚かったラマ高僧のパスパが、チベット文字などを参考にしながら作った文字とのこと。
公文書に用いるように命令があったとはいえ、モンゴル語はともかく、中国語を表音文字によって表現するには限界があるのは明らかで、元朝の衰退とともに使われなくなり、いまでは印章や石碑などが残っている程度。

こういう文字がサッと読めたりするとかっこいいかなあ、とは思うのですが、そもそもモンゴル語自体、本を数冊読んだだけでは「天」が「テングリ」であるくらいしか覚えられませんでした。
もちろん、横棒と縦棒ばかりで構成されたパスパ文字はからっきしです。

文字を持つということ
日本語を学習する外国人にとっては、やはり漢字は難物のようです。
これは日本人にとっても決して楽なものではなく、小学校の頃いやだいやだと思いながらも漢字の書き取り練習をさせられ、でもそのおかげで日常的に数千もの文字を読み書きできるようになっています。「勉め強いる」勉強なしには、身につかないことってあるんですよね。

日本人が中国から借りてきた文字で日本語の音を書き記したばかりでなく、それを変形させて「ひらがな」「カタカナ」を作り上げ、それらを組み合わせて使ってきたというのは、私たちの文化にとっては大変な幸運であったといえます。
そして、いくどかの議論を経てもなお、日本語をローマ字表記にしたり、漢字を極端に単純化することなく使ってきたことも、(外国人学習者にとっては悪夢でしょうが)私は正しい判断だったと思います。

文字を持たないがゆえに歴史や文化を書き残せなかった民族は多いですし、文書を作成すること自体を他民族にほとんど任せてしまった民族もあります。
もとは借り物でありながら、それをうまく取り込んで独自の文字に発展させてきた日本人は、それが許された島国という環境も含めて、非常に幸運であり、同時に優秀な人々の成果をうまく生かしてきたのだな、と実感できます。
少なくとも、私たちはそれなりに努力をすれば、1000年前の日本人が書き残した文書を読んで理解することができるのですから。

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2011年8月 6日 (土)

英会話教室でたくさん喋るために
「英借文」は傑作
川本さんのブログ「You can do it!」のファンのかたがたは「英借文」といえばすぐにおわかりでしょうけど、ホントにこの学習法は良いと思います。
誰もが最初から英語で話せるわけではないのだから、さまざまな教材で「これは!」と思ったらそのまま使ってみる、次には単語を入れ替えてみる、というのはすごく効率的に表現の引き出しを増やす方法です。

英語に限らず、外国語は日本語とは違うものなので、日本語で考えてから英語で表そうとすると無理があるのは当然です。
英会話教室でなかなか話し出せないのは、日本語を英語にそのまま移し替えようとするから。私も教室に通い始めてから半年から1年はこれで悩んでました。日本語ならいくらでも話せるのに、どうして英語だとダメなんだろうかと。
いまさらですが、川本さんの「英借文」を当時知っていたら、もう少し近道ができたかもしれないと思います。

脳内シミュレーション
英借文を知らなかった私が英語で話せるようにどうしたかというと、なにかを見たり聞いたりしたときに、「これどうやったら英語でいえるかな」というのをいつも考えるようにしていました。いわば身の回りの実況中継です。
大切なのはその場では辞書を使わずに、自分が知っている単語だけでなんとか表してみよう、とすることです。これは川本さんの「三行英語」にも通じます。

やることはとても単純です。
たとえば、ビールを飲んでるなら「Now I drink Beer.」、会社の同僚と一緒だったら「I am  together with my colleagues.」、そしてIPAがとてもおいしかったら「IPA is very good.」でOK。英語としてこなれてなくたってまずはかまいません。
ここでは一つとして難しい単語は使っていません。せいぜい「同僚」という意味の「colleague」くらいがなじみのない単語でしょうが、これだって「co-workers」といってしまえばもっと簡単。

駅に向かって歩きながら、この調子で「I saw a cute girl and her mother.」とか「Oh, I missed a train just now!」とか、実況中継をとにかく続けます。
大声で喋ると怪しい人になってしまうので、頭の中で考えるだけか、せいぜい小声でつぶやく程度。
これを繰り返していると、不思議と教室の中でなにかを話そうと思ったとき、過去に考えた似た表現が思い浮かぶようになります。おそらく、やり始めてから半年くらいの時期だったと思います。

教室の中では誰もが生徒です。つまり、全員が発展途上。
こんな単純な話で恥ずかしい、とか、習った表現をなかなか使えてない、とか気後れする必要はまったくありません。私は、稚拙な表現でも自分の思っていることを伝えようとするほうが、流暢なのに内容の全くない空虚な言葉を並べるのよりもずっと聞いていて楽しめました。
外国語が堪能であることよりも、本当にうれしかったことや楽しんだ事柄を伝えようとする気持ちのほうが、ずっと大切だと思います。
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2011年8月 9日 (火)

やる気が出ないときには
サボり中です
7月の中旬に台風がやってきて以来、東京でも最高気温が30℃に届かない日が多くてかなり過ごしやすい日が続きました。
このまま秋になってくれればラクなのに、と思ったのですが、そううまくはいかないものです。今週に入ってからはいつも通りの蒸し暑さが戻ってきました。今年は冷房も控えめに、ということで、こう暑くては外国語の勉強にもなかなか身が入りません。

ちょうどうまい具合に、このところ仕事のほうもだいぶ忙しくなってきました。
蒸し暑さと忙しさが重なっては、英語やドイツ語の勉強どころじゃないですね。そんなわけで、8月に入ってからは「テレビでイタリア語」「テレビでドイツ語」を観た程度で、他にはほとんど勉強できていません。

毎日継続なんてできない
「継続は力なり」といいますが、そもそもこういう言葉が頻繁に引用されること自体、誰もが「継続できない」ことの表れともいえます。
私は語学学習の最大の敵は、「継続できない」ことではなく「継続できない自分には外国語は無理だ」と思わされてしまうことじゃないかと思ってます。どんな状況でも15分30分の学習を欠かさない、それは立派なことです。でも、立派な人は少数だから立派なのですね。
勉強する気力がないときにはサボっちゃえばいいと思うのですが、サボったことが罪悪感や無力感につながるとすれば大問題。

こういうときには、勉強ではないけれど、外国語に無理なく触れる程度にしておくのも一つの手です。
好きな映画を言語で観るとか(勉強ではないのだから、そもそも台詞なんか聞き取れなくても話がわかるほど繰り返し見たものがいいです)、洋楽をかけるとか。

なんとかしのぐ
私は「ただ聞き流すだけで何とかかんとか」といった英語教材の効用は一切信用していません。ただ、学習効果などまったく期待せずに、「サボってしまった」罪悪感を持たないようにするためだけならば、多少は意味があるかもしれません。
でもまあ、そのためにお金を出して教材を買うのはさすがにムダでしょうね。ネットが使えれば無料のビデオや音声がたくさん手に入りますから。

たとえば次に行きたい旅行先を紹介したビデオなんかはどうでしょう。
旅行代理店や専門誌などが、さまざまな旅行先やサービスの紹介ビデオを公開していますから、まずは動画サイトなどで目的地で検索、良さそうなビデオを公開している業者のサイトに行けばいろいろと見つかります。
先週末は、妻と二人で犬ぞりレースのビデオをあれこれと探しては観ていました。都合3時間くらいは英語を読んだり聞いたりしていたと思います。

「継続は力なり」というのは、とりあえずなにもしたくないときにも、自分が納得のできる程度に何かでしのぐ、ということも含めてで良いのなら、私のような凡人でもなんとかなりそうです。

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2011年8月13日 (土)

好きな言葉を学ぼう
50年前の今日は
50年前、1961年の今日は、ベルリンの壁の建設が始まった日なのだそうです。
壁が破壊されたのは1989年11月でしたから、28年と3ヶ月ほどのあいだ、ベルリンは壁によって東西に分断されていました。
私が子供だったころは、地図帳には東西ドイツだけでなく、ベトナムもまた南北にわかれていました。朝鮮半島はいまでも南北に分断されたままですが、世界のいたるところが東西の両陣営に塗り分けられ、米ソのどちらかに分類されない国々が「第三世界」とくくられていた時代です。

そんな時代でしたから、小学校から中学にかけて見たニュースも今から考えると波瀾万丈。ド・ゴールやフランコ、そして周恩来や毛沢東の死去があり、第二次大戦当時の指導者が次々と世を去っていきました。
文化大革命はいったい何なのか理解できませんでしたが、その後の第一次天安門事件や四人組の逮捕は毎日のニュースで追いかけていました。1970年代から80年代にかけての変化は、「戦後」の最後の3分の1であったように思えます。
その一連の変化の最後にやってきたのが、ベルリンの壁の崩壊と、東西ドイツの再統一でした。これもまた、21年も前のことになります。

さらに100年前には
さて、1961年からさらに100年をさかのぼった1861年の1月24日、当時のプロイセンと日本とのあいだに修好通商条約が調印され、交流が始まりました。
今年は日独の交流150周年にあたり、多くのイベントが開催されているのは、とくにドイツ語学習者のみなさんはよくご存じでしょう。

これを期にドイツ語学習熱が高まっているのかどうかは、実のところよくわかりません。
書店での学習教材の量を見ると、まだまだ英語・中国語・韓国語そしてフランス語に続いて多いようではありますが、このところイタリア語やスペイン語の教材が急速に増えている上、他の言語もどんどんと増えています。

むしろ、ドイツ語学習者のシェアは徐々に減ってきているようにも思えます。いまや医学=ドイツ語でもないでしょうし。
まあ、学習者が多かろうと少なかろうと、私はドイツの文化や食べ物とビール、そして歴史や芸術が好きなので、ドイツ語を学びたいのですけどね。

好きな文化、好きな言語
外国語を「仕事ための道具」と考えれば、英語と中国語さえあれば、極端にいえば他の言語など不要かもしれません。ドイツ語にしても、1億人と少ししか話す人がいないのですから、話者数という観点では日本語とそう変わりはありません。
ただ、外国語を学ぶのは仕事のため、もっとあからさまにいってしまえば「金のため」ばかりじゃありません。むしろ、自分の好きな文化・食べ物・風景や芸術作品により深く触れるために学んでいる人が、英語中国語以外の学習者には多いでしょう。

さまざまな場面でグローバル化が進んでいるとはいえ、日常生活に外国語が「必要な」人など未だ少数です。
英語はたしかに世界中で通じるし、現地の言葉などわからなくても旅行者が不自由する場面は決して多くはないでしょう。けれど、その国の文化が好きなら、その言葉を学びたいと思うのは自然なこと。私たちだって、「ありがとう」や「はじめまして」さえ学ぼうとしていない外国人が「日本文化に興味があります」なんていったって信用しませんよね?

英語が流暢に話せることもすごいことだと思いますが、最近ではたくさんの言葉を少しずつでも学んでいきたいと思っています。
世界中には数千もの言語があるのに、どんなにがんばったって10もマスターできるのは例外的。けれど、自分が関心を持ち、惹かれている文化があるのなら、英語なんかすっ飛ばしてその言葉を学ぶことを考えても、良いんじゃないかと思います。
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2011年8月16日 (火)

ガイドブックのように
気をつけましょう
本日は会社の夏休み最終日でした。日本橋の期間限定のレストランでおいしいお魚とビールを堪能し、ついでに三越でジェラートを食べて帰ってきたところ。遠出はしなかったのですが、毎日おいしいビールを飲んでまあまあの休みでした。
その帰りの電車内でのことです。突然、社内に英語の音声が鳴り響きました。

どうやら犯人は40歳くらいの男性。英会話のテキストを手に、なぜか涼しい顔で手持ちの音楽プレーヤー(どうやら小型のスピーカー付き)でテキストの問題文を車内に響かせています。
一度音を出して、「失敗した」という風でもなく、次から次へと20秒おきくらいに英語が流れていましたから、どうやら「これで問題ない」と判断しているようです。イヤホンもつけておらず、意図せずにスピーカから音が出てしまっているようでもありません。

一定間隔を置きながら音が流れるたびに、車両中の視線がその男性に注がれます。
ちょうど一駅分、4分ほどたったあとで、急にごそごそと動き始め、プレーヤのボリュームを下げたあとで鞄にしまい込みました。
理解できないのは、その際イヤホンをプレーヤにぐるぐると巻き付けていたことです。あるなら最初からイヤホンで聴いていればいいのに。
ま、この男性がなぜ電車内でスピーカを使って英会話教材を聴きたかったのかはわかりませんが、やはり電車内では控えておいたほうが良いでしょうね。

街歩きの
さて、私が最近通勤電車内で読んでいるのが、「街歩きのドイツ語」「街歩きのスウェーデン語」です。
旅行時に便利な、ごく初歩的な表現集ですから、ドイツ語のほうはさすがに単語レベルでも知らないものがほとんどないくらいですが、美しい写真がふんだんに使われており、しかも実際に旅行中に便利だった表現ばかりが並んでいるので、おさらいにもちょうどよいレベルです。

ということは、スウェーデン語のほうも、旅行中に必要なフレーズがかなり網羅されていると考えて良いでしょう。
スウェーデンへの旅行を具体的に計画しているわけではありませんが、つい最近NHKのBSで北欧特集の番組を見続けていただけに、どの写真にも見覚えがあるように感じられます。

私の外国語は、ビジネスに使いたい、とか、その国に留学や移住を考えている、とかいうものではなく、あくまでも一週間程度の旅行中に、少しでも現地の言葉でコミュニケートしたいためのものです。
そのくらいが目的だと、この手の本はちょうどよい入門書になります。まずはこうした旅行ガイド兼フレーズ集のようなものを読んでみて、その言葉の雰囲気をつかんでから本格的に学習を始めると、まったくゼロからテキストを開くのに比べるとずっと楽な気持ちで向かえます。
入門書としては、「○○語のしくみ」シリーズと双璧をなすのではないかな。

外国語を学ぶというと何だから大仰に感じられますが、「旅行の準備」だと思えばずっと気持ちもラクになります。
ガイドブックを選ぶのと同じような気持ちで、その国の言葉に触れられる入門書を手に取ってみると、語学に向かう気持ちも少し変わるかもしれません。

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2011年8月23日 (火)

忘れたころにまた読む
定評ある教材はやっぱり
語学学習に限らず、教材というのはやはり定評のあるものを選んでおけば失敗する確率は少ないものです。
たしかに学習法は人それぞれ、教材との相性だって人によりさまざまでしょうが、定評ある教材というのはたくさんの人々との「相性」が確認されたものです。どれを選んだらよいか迷ったときには、評価の定まったもの、古典と呼ばれるものを選んでおくのが、最初は無難。

逆に私が絶対に選ばないのは、「他の教材と違って、ただ○○するだけで身につく」なんて謳っているものですね。
外国語が何の苦労もなしにただ聴いているだけ、ただ眺めているだけで身につくのだったら、今頃私たちはこんなに苦労していないわけです。英語教材がなくなり、NHKの番組は放送を終え、英会話教室はすべて閉校しているでしょう。

でも実際にはそうなっていないのだから、「ただ○○するだけで!」教材の正体など簡単に予想できるというものです。だって、例のプロゴルファーは、「他の教材、教室、レッスンなどは一切やっていません」とは絶対にいいませんよね?
彼は英語を話すことを強く望み、努力をしたからこそ話せているのであって、魔法の教材を手に入れたわけではないはずです。

忘れたころに再度読む
教材や解説書を買って大事なことは、読み通すことではありません。
どうしても読み通せないのなら、それはいまの自分のレベルにあっていないか、あるいは「相性」が悪いことの表れです。
そんな状態で自らにむち打って読み通したとしても、それは身にはなりません。嫌々やっていることって、つらい上にあまり役に立たないものです。

なので、大事なのはレベルや相性をさっと見極め、うまくつきあえそうなら読み通すこと、ダメそうならそっと書棚にしまうことです。
どちらにしても、買ってから半年もたてば、内容はすっかり忘れているはず(これは保証しますが、おとなになってから読んだ本の内容なんて、ほとんどの場合は半年ですっかり忘れるものです。ミステリーでの犯人を忘れることだって少なくありません)。
そうなったら、また新たな気持ちでページをめくること、これが次に大切なことです。

仮に最初の10ページで投げ出した本でも、捨てたり売ったりするのはもったいない。
定評ある教材であれば、いつか自分がちょうどよいレベルになることもあるし、相性だって年とともに変わってきます。10代のころに好きだったタイプと、40代になってから魅力を感じるタイプは違うでしょ。

読んでいようがいまいが、半年くらいたったらまた読んでみることで、前回読んで得たものにまた新たな層を積み重ねることができます。
これを何度か繰り返すことで、最後にはその本に書かれていることがすっかりと自分のものになるでしょう。せっかく数千円を出して買うのだから、1回や2回ではなく、3回4回あるいはもっと、繰り返して目を通します。
語学参考書って、高いですよね。でも、1回読んで売り払うベストセラーよりも、ずっと最終のコストパフォーマンスは、高いと思いませんか?
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2011年8月27日 (土)

字幕なし
本日は外出先にて宿泊のため、小ネタにて。
遅ればせながら、ディズニー/ピクサーの新作「カーズ2」を観たのですが、物語の舞台が日本、フランス、イギリスそしてイタリアと広がっているだけあって、それぞれのシーンでは現地の言葉が頻繁に登場します。

東京の街並みは、なんとなく日本語っぽい商品名やお店の名前のネオンサインが所狭しと並んでいます。居酒屋の赤提灯にも「速い」とか書いてあって、日本人の私がみると「ちょっと違うけど...」と思うのですが、きっと新宿や秋葉原、銀座あたりのイメージなのでしょう。そういえば、歌舞伎座も出てきました。
一方で、ロンドンやパリの風景にはあまり違和感がなかったのですが、これも現地の人にとってはあれこれ時になる点があるのでしょうね。

で、もちろん字幕版で観たので、英語のセリフには字幕がつくのですが、日本語だけでなく、イタリア語やフランス語、そしてドイツ語には字幕はつきません。
冒頭付近である登場人物が「Sehr gut!」やら「Wunderbar!」といった時に、あれ?と思ったのですが、あとのシーンでイタリアの港町では一言ふたことではなく、ずうっとイタリア語が続く場面さえあります。

この場面で、隣で観ていた妻はイタリア語のセリフにクスクスと笑っているのですが、私には一体なんだかわかりません。
主人公たちは外国語が理解できないわけなので、字幕なしで観ている観客は同じ気分を味わえますから、ここはこれで正解でしょう。
吹替版ではこの辺りをどう処理しているのかわかりませんが、そのまま吹き替えても、あるいはイタリア語風のセリフにしても、この感じは出せません。やはり原語・字幕なしでないと。
残念なことに、この作品はどの劇場でも吹替が中心で、字幕版は一日に一度くらいしか上映されないようです。し未見の方がいらっしゃいましたら、できれば字幕版を選ぶことをオススメします。
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2011年8月30日 (火)

複文病
今日も再読
先週から再読している本は、関口一郎著「マイスタードイツ語コース 3 語法」です。
まだ中級に手がかかったばかりの私には早い教材なのですが、それだけに何回読んでも新たな発見があります。半年ほどあいだをあけて読むと、そのたびに理解できる部分が増えている実感があります。

本当なら、ここに出てくるたくさんの用例をフラッシュカードに書き写して毎日眺めているだけでも違うのでしょうが、そういう地道な努力ができないのが私の学習スタイルでもあります。
結局はダラダラと遠回りなのがわかっていても、少しずつ自然に身についた表現が増えるのを待っている感じですね。趣味なので悪くはないのですが、さすがにちょっと時間がかかりすぎかもしれません。

複文病
今日読んでいた部分で、とてもおもしろかったのが230ページの「いろいろな<ドイツ語病>」というコラムです。
いくつかの「症例」が列挙されている中で、いま私がもっとも深刻に抱えているのが「複文病」です。つまり、複文という便利な構文をおぼえてしまったゆえに、もっと簡単に言えばいいところをわざわざ複雑にしてしまい、言葉が止まってしまう症状です。

よくよく考えると、英語で会話をするときにはわりと短い文を重ねながら話を進めているのに、ドイツ語となると急に複文やら関係詞やらでつなぎたくなるのは、一通り文法を習い終わった中級なりたてにありがちな状態といえます。
「今日は会社を休みました、熱があったから」だって、「Ich fehle heute im Büro. Ich hatte Fieber.」といえばいいところを、「Weil〜」と始めてしまって混乱したり。

そのうちに前に進む
2年も3年もかけてこの状態では、本当にドイツ語が話せるようになるのか情けなくなりますが、一応、関口先生でさえ、「私自身過去にかかった体験」があるとおっしゃっているので、そう悲観することははないのかもしれません。
それでも、上達が実感できずに足踏みしているように感じられるときというのは、どうにも不安でしょうがなくなりますね。

でも、英語での経験上、ここで諦めてしまうとダメなんです。
足踏みは足踏みで仕方ないから、目先を変えてみたり、上達ののろい自分とのんびりつきあってみたりしながら、とにかくやめずになにかを続けることが大切。
そのうちに、再び前に進み始めているのを実感できる日がやってきます。
うまくいかないなあ、と思ったときに、じたばたせずにうまくいかない自分と折り合いをつけることも、おとなの語学の秘訣の一つじゃないかと思います。
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