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人生まだ半分、37才からの外国語
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英会話教室や雑誌、ネットなど、ごく普通の環境だけで始められ、続けられる外国語学習の記録と秘訣を伝えていこうと思っています。
 

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人生まだ半分、37才からの外国語

2009年12月 1日 (火)

英語の歴史に親しむ2冊
英語ってどうして
中学の頃からずっと疑問だったのですが、英語はなぜ書いてあるスペルのとおりに読まないのでしょう。しかも、読みにルールがあるようでいて、すべてが同じルールに則っているわけでもないし。
ドイツ語やイタリア語は、名詞の性やら格変化やら、英語に比べてややこしい要素があるのもたしかなのですが、こと読みに関してはかなりの部分が一定のルールに従っています。なので、全く意味がわからなくても声に出して読み上げることは可能です。

なぜ英語はこうなってしまったのか、その理由のひとつが英国の歴史にあります。
もともとケルト系の人々が住んでいたブリテン島に、まずアングル族やサクソン族といったゲルマン民族が移住します。当時のゲルマンの言葉をもとに古英語が成立します。
そこへ11世紀のノルマン人による征服王朝が成立し、フランス語が流入、さらにはラテン語からの語彙の流入もあって、英語はひとつの意味を表すにも複数の異なるルーツを持つ単語があり、スペルと読みが一致しない、世にも複雑な言語となってしまった...というわけ(きちんとした周辺知識を持たない私がざっくりとまとめたので、誤解や間違いがあるかもしれませんが)。
冒頭の疑問にはとりあえずこんな背景があったようです。

こうした事情を知ったのが、昨年読んだ本「英語の歴史」(寺澤盾著・中公新書)でした。
レシートが挟んであったのですが、ちょうど1年前の10月末に購入し、読んだもののようでした。そういえば、このブログを書き始めた頃に「そのうちネタに使おう」と思っていた記憶があります。

英語の歴史
「過去から未来への物語」という副題のついたこの本は、英語という言葉の歴史と現在、そして未来について非常にコンパクトに、しかも読みやすくまとまったものです。

お堅い歴史の話ばかりではなく、英語表現にまつわるさまざまな疑問やPC表現のような最近の話題まで、幅広く雑学的に読めます。
したがって言語学や英国史についての基礎知識がなくても、読み進めるのにほとんど問題はありません。まあ、興味があることは、重要ですけど。

そしてもう一冊、先月読み終えたのが「英語文化を知るための15章」(武内信一著・研究社)です。
こちらは大学での講義テキストを元にして書かれたものなので、「英語の歴史」よりはぐっとアカデミックになります。

英語文化を知るための15章
アカデミックとはいっても、こちらも素人お断りの難解なものではありません。
英語の成り立ちや歴史、英語による文学の歴史に関心があれば、ほとんど退屈せずに読むことができるでしょう。

この本を読むと、言語というものがきわめて政治的にも重要な意味合いをもつことが理解できます。
王権が代わるたびに、その正統性を示すために歴史が掘り起こされ、民族的なルーツと宗教面でのルーツとに矛盾があっても、権力は平然とそれらを利用し、結果として言語が影響を受け変化します。その変化の積み重ねがいまの英語の姿でもあるわけです。

「ベオウルフ」の文章などを読んでみると、現代のドイツ語との共通点の大きさに驚きますし、「カンタベリー物語」あたりになるとかなり英語っぽさが出てきます。
一見してわからなくても、訳文を読んでから戻ると「あ、あの単語か!」と気づくこともあって、ちょっとした暗号解読の気分も味わえます。
本文210ページの薄いものですが、じっくりと読み進めるとけっこうな時間を楽しむことができます。もちろん、一度ではなかなか頭の中で整理できませんから、二度三度と読み返して楽しめるでしょう。

いつもいつも「勉強」「目標」「努力」みたいな状況で英語とつきあっていては疲れちゃいますから、時にはこんな本を読んで、学習とは別の方法で英語と親しくなるのも、良いんじゃないでしょうか。

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2009年12月 5日 (土)

Hi! from NYC
Good morning everyone, I'm in the room of a hotel at Manhattan, NYC just now. It's Saturday morning and I just started my third day in NYC with nice bagle bagel bought at the famous store at 79th street.

I left Japan on Thursday. This is a short trip to see some Operas and orchestra concerts at Lincoln Center.
I saw 'Les Contes d'Hoffmann', 'Le Nozze di Figaro', and New York Philharmonic concert already. Today I'm going to see 'From the Hause of Dead' and 'Il Trittico.' Four operas and one concert for three days! It's a really busy trip.

Unfortunately, the weather news says it'll rain in this afternoon and snow in the evening.
However, it'd be a wonderful day because I can listen to the music by Esa-Pekka Salonen who conducts 'From the House of Dead' today! My wife is really excited because she is enthusiastic fan of Mr. Salonen, off course I am.

Oh! It's almost midnight on Saturday in Japan.
I'll post it without checking spells or grammar, if you can notice some mistakes, please tell me. Thanks!
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2009年12月 8日 (火)

英語字幕で観るオペラ
無事帰りました
12月5日の更新は、事前に準備をして期日指定更新という技が使えず(出発直前かなりバタついてしまったのです)、滞在中のホテルの部屋からの更新でしのぎました。
全文英語だったのは、インターネットカフェにいたからではなく、持参した小型PC(というか、「モバイルインターネットツール」と呼ぶらしいですが)の「NetWalker」のカナ漢字変換の性能がイマイチなので、急いで記事を書くのに(いい加減な)英文でやったほうが楽だったからです。
案の定、スペルミスなんかがたくさんあるので、あとでなおしておかねば...

なにはともあれ、3泊5日の短い滞在はあっという間に終わり、無事帰宅してしまいました。
そして出社してみたら仕事は山のようにあって、ついでにさっそく英会話教室があって、ようやく帰宅してまたしても慌てて書いている、というわけです。
時差ぼけは全くありません。帰りはだいたい楽なんですが、今回は最終日にプッチーニの「三部作」の公演が終わったのが23時50分過ぎ、ホテルに戻って買っておいたビールで最後の乾杯をし、荷造りを終えて寝たのが3時近くでした。5時半には起きて7時前にホテルを出発したので、超寝不足状態だった私は飛行機の中で8時間以上もぐっすりと眠り、さらには帰宅後もたっぷりと眠ってすっきり時差解消です。

今回はオペラ三昧
実質3日間の滞在で、オペラを4演目とコンサートをひとつ予定していましたので、ほとんどほかのことはできませんでした。
セントラルパークをちょっと散歩して、コロンバスサークル、タイムズスクエア、ロックフェラーセンターなどの定番の場所をうろついただけ。ニューヨークに行ってきたのではなく、「リンカーンセンターに行ってきました」という感じです。
そのうちにちゃんと時間を作って遊びに行きたい街でしたね。

メトロポリタン歌劇場(MET)に3日間通って観た演目は、次の4つです。
・オッフェンバック 歌劇「ホフマン物語」(フランス語)
・モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」(イタリア語)
・ヤナーチェク 歌劇「死者の家から」(チェコ語? たぶん)
・プッチーニ 歌劇「三部作」(イタリア語)

オペラに興味のないかたは、最後の「三部作」ってなんじゃいな、と思うかもしれません。
これはそれぞれ1時間内外の短い作品が三つ、「外套」「修道女アンジェリカ」「ジャンニ・スキッキ」の順でセットで演奏されるものです。
作品名の後ろに上演される言葉を書いておきましたが、もちろんこのいずれも、私には聞いてもわかりません(まあ、アンナ・ネトレプコのフランス語はフランス人が聞いてもひどすぎて全然わからないでしょうけど...)。

そこで字幕サービス
オペラの筋書きなど単純なものですし、上記のいずれも何度か観たことがある(「死者の家から」だけはテレビで一度観ただけでしたが、今回のMETと全く同じプロダクションでした)ので、まあ場面場面で何を歌っているかはだいたいわかります。
とはいえ、さすがに歌詞を暗記しているほどのファンではないので、字幕サービスを大いに利用しました。

METでサービスされる字幕は、「英語・ドイツ語・スペイン語」の三つです。
なぜオペラの本場ともいうべきイタリア語がないのかが不思議なのですが、まあ、イタリア人はわざわざニューヨークまで観に来ないかもしれません。
というわけでもちろん日本語字幕サービスはないのですが、英語字幕もさっと見て理解できる短くシンプルなものなので、たとえばTOEICのリーディングの問題を読んである程度意味をとれるなら、問題なく歌詞の内容を把握できるでしょう。なにより、目の前に舞台があって歌手が歌っているので、ただ文字を追いかけるよりはずっとわかりやすいはずです。

初日の「ホフマン物語」では、試しにドイツ語字幕にしてみました。
これも、気合いを入れて読めばだいたいの意味はとれます(ただし、事前に何度かビデオやDVDを観て歌詞の内容をおおざっぱに把握しているので、語彙の不足がカバーされるからなのですが)。ただ、これだとドイツ語字幕を読むのに忙しくて舞台を観るヒマがないので、10分ほどでやめました。
その意味では、英語字幕でもさっと見て大まかに意味がとれる程度のリーディング力は、必要かと思います。
単純な比較はできませんが、ディスニーのDVDあたりを英語字幕で観て、それほど問題なく意味がとれるなら大丈夫ではないでしょうか。

短い旅の上に、食事以外であまりあちこちをうろついたわけではないので、英会話に関するおもしろい話は今回はそれほどありません。
なんかおもしろい失敗でもあれば良かったんですが(笑)、ほとんどトラブルらしいトラブルもなく、とても順調な旅になりました。それだけ冒険していないってことですけどね。
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2009年12月12日 (土)

ビールの単位あれこれ
飲むのも良いが、読むのも
私はもちろんビールを飲むのが大好きですが、ビールについての本も好きです。
最近読んだのは次の2冊、ビールといえばやはりドイツ、そしてイギリスです(もちろん、アイルランドもチェコも良いんですが、本は圧倒的にこれらの二つの国が多いですね)。

 ドイツ地ビール 夢の旅(相原恭子 著、東京書籍)
 パブとビールのイギリス(飯田操 著、平凡社)

同時期に読んだので並べましたが、両者はかなり趣が異なります。
前者は著者がドイツを旅して飲み歩いたビールと街を紹介する紀行文であるのに対して、後者はイギリスにおけるビールとパブの発展の歴史を易しく解説したもの。

共通しているのは、読んでいると現地へ飛んでいってビールを飲みまくりたくなる、ということ。
しばらく読んで気持ちが収まっても、章が変わるとまた新たな種類のビールが紹介され、あるいはビールに関わる別の物語が紹介されます。会社帰りの電車の中で読んでしまうと、家にたどり着いて冷蔵庫を開けるまでの時間が長く感じられて仕方がありません。

アイリッシュパブとベルギービールも
ビールといえば、この何年かで目立ってきたのが、アイリッシュパブとベルギービールを出す店です。
両者とも、現地の生産者が日本市場での拡販キャンペーンを強化したおかげでしょうか、10年ほど前に比べるとかなり容易にあちこちで個性的なビールを飲むことができるようになりました。
店の内装なども本場のものに似せ、雰囲気を出している一方で、禁煙席をもうけたところも多くちょっとした食事のために利用することも多いです。

アイルランドのビールの代表格といえば「ギネス」、そしてベルギーの代表選手といえば「ヒューガルテンホワイト」でしょうか。
アイリッシュビールがギネスを中心にかなり資本が集中して定番商品が確立しているのに比べ、ベルギーのほうはさまざまなキャラクターを持つビールがあって好みに応じて楽しむことができます。
上記の「パブとビールのイギリス」を読むと、ビール生産の技術の発展と資本の集中の課程で19世ににうまれた「ギネス」と「バス」は、いまでもこの地を代表するビールとして日本でも親しまれています。

実は今日もとあるアイリッシュパブで食事をしましたが(なんと土曜日にもハッピーアワーができていて、おかげでついつい飲み過ぎました)、すぐ隣の席では英会話サークルの仲間とおぼしき一団が大いに盛り上がっていました。
つい一週間前にはニューヨークにいたこともあって、英語を聞きながらパブでビールを飲んでいると、旅行が続いているかのように感じられました。

わかりにくい「単位」
海外旅行中、あるいはパブでビールを飲む際にまごつくのが、単位の違いです。
たとえば、パブでのビールの単位は「パイント/pint」です。これは1/8ガロンでアメリカでは473ml、イギリスでは568ml。おおざっぱにはロング缶と同じくらいと考えておけばよさそう。ハーフパイントでも頼めるのですが、さすがに「グラスビール」みたいであまり飲んだ気にならないのが難点です。
日本国内のパブでも、メニューには「1pt./3/4pt./1.2pt.」なんて書いてあります。

ビールではありませんが、アメリカに行って飲み物を買おうとすると多く使われている単位が「オンス/oz(重さではなく液体の体積なので、fl ozとも表記される)」です。
これは1ozが29.6ml(イギリスではちょっと少ない)で、飲み物は16oz、20oz、24ozくらいの単位で売られていることが多いようです。それぞれ、約473ml、591ml、710mlとなります。アメリカなら16oz=1pt.ですね。アメリカではパイントよりもオンスがよく使われているように思います(ただし、私が知っているアメリカなんて狭いので、全土の話ではないかも)。

ドイツはメートル法を採用しているので(というか、アメリカが身勝手なだけ、ですよね)、ビールの単位も「Mass=1リットル」です。そして半分の500mlが「Halbe」、つまり「半分」。これならわかりやすいです。
ただし、私も含めて欧米人よりも一般に酒に弱い日本人には、「1/2 pt.」つまりグラスビールくらいの選択肢がないのは、多くの種類の試す上ではちとつらいかも。

パブでビールを頼むときだけでなく、服や靴を買うのでも、普段なれている単位が通用しないのはけっこう面倒なもの。温度の華氏表記なんかもそうです。
世界中で単位やサイズ表記が同じになればわかりやすいのですが、当面は単位換算表が手放せません。
もっとも、最近ではiPhoneやスマートフォンなどのアプリケーションで、単位換算や通貨換算が簡単にできるようになっているので、店頭であれこれとややこしい計算をする必要は減ってきているのですが。
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2009年12月15日 (火)

安心して間違えられる場所を確保しよう
フィンランド語には格が15
英語を学んできた日本人がドイツ語などの他のヨーロッパの原語に触れて最初にまごつくのが、「名詞に性がある」とこと「格変化」じゃないでしょうか。
英語というのは、発達の過程でこれらの性格を排除してしまった、ある意味では特殊な言葉といえます。その代わりに、文を構成する際の語順に制約が生まれ、あるいは前置詞が多用されるといった特徴を持ちます。
 
最近ちょっとフィンランド語に興味があって、本を買ったりWEBサイトを眺めたりしているのですが、なんとそこには衝撃的な事実が。格変化が15種類、単数複数であわせて30もあるというのです。
以前ラテン語の文法に関する本を読んだことがあって、「格が7つ、信じられん!(実際には呼客と主格が同じだったりして5種類)などと思っていたのですが、それがなんと15種類とは、ちょっと目眩を感じます。
いま読んでる本はこれ、お手軽に読めるので気に入ってます。

 フィンランド語のしくみ(吉田欣吾 著、白水社)
 
なぜ15種類も存在しうるのかといえば、ようは前置詞と名詞を組み合わせる代わりに、格で意味を表そうということですね。
だたらといってフィンランド語に前置詞がまったく存在しないのかどうか、まだ良くわからないのです。「欠格(~なしで)」なんてのもあるようですから、少なくとも英語の「without」やドイツ語の「ohne」にあたる言葉は、不要なのでしょうね。
 
15に比べたら、4つくらい
格変化が7つとか15といった言葉もあることを考えれば、ドイツ語での格変化なんて楽なもの、という気がしてきますから不思議なものです。そもそも私がラテン語文法の本なんて読み始めたのも、もともとは「よりややこしい文法に触れれば、英語やドイツ語が簡単に思えるのではないか」という狙いがあったのでした。
 
もちろん、格が少ないということは前置詞の重要さが増してくるということで、今度はその前置詞が特定の格を要求する、3格か4格かによって意味が変わってくる、などの約束事が登場します。
言語というのは、とても複雑な人間の考えやさまざまな事象を記述するものだけに、例外や複雑さのない、ただシンプルなものにはなりえない、ということなのでしょう。
 
前置詞の選択というのは英語でも中級くらいまででは未だに迷いが多いもので、たとえばニューヨークから書いて更新した記事でも、「I'm in the room of a hotel at Manhattan, NYC just now.」にしても、「at Manhattanなのかin Manhattanなのか」迷いました。未だに間違ってるような気もします(ついでにいえば、いきなり「the room」にいますってのもヘンかな。「in a room」にすべきですね。前置詞だけでなく、冠詞も間違い続けるものの一つです)。
ふだん適当な前置詞を選びながら話してはいますが、きっとネイティブスピーカーにすれば不自然な表現になっていることでしょう。「ワタシガ オフロヲ ハイリマス」みたいな。
 
安心して間違えることが大切
とはいえ、中学校3年生の頃とまったく同じように間違っているかというと、そうでもありません。さすがに、英語を読み、書き、あるいは聞いて話す時間が多くなることで、「自身はないけれど、なんとなく感覚でつかめてきた(ような気がする)」ことは増えてきています。
さすがに「I'm on a room at a Hotel of Manhattan.」とは書かないわけで(これはさすがに例としてもひどすぎますかね? でも、中学校の頃の私だったらやりかねなかった)。
 
もちろん、それぞれの前置詞のもつ意味合いをきちんと理解することで間違いは減るのでしょうが、同時に、「場数を踏んでたくさん間違える」ことで慣れていくことも重要でしょう。
なので、教室内ではできるだけたくさん間違えて恥をかいたほうが、良いのです(クラスメートが見たら「お前いい加減にしろっ!」と叱られるかもしれませんけど)。間違って訂正してもらって、その表現を使ってみることで、やっと体得できることも多いわけで。
 
メトロポリタン歌劇場のボックス席で一緒になった男性は、2年ほど日本に住んだことがあったそうです。
そのときの印象としては「日本人はあんたのように英語をある程度話せる人が多いのに、なかなか英語では話してくれなかった(I guess there should be many Japanese people who can speak English like you. But they seldom speak in English. てな感じだった)」のだそう。紋切り型とは思いつつも「日本人の多くは、間違うことを嫌がるのですよね。間違っても良いから話せば通じるのに(Most Japanese people fear making mistakes. I think it's OK to speak more even if they make mistakes. ほうら、案の定「fear」のあとに「of」がないし...)」と答えました。
 
けれどまあ、端的にいって「間違いを恐れる」のは、受験英語の弊害とかいったことではなく、単に「場数が不足している」のではないかと思います。多くの日本人にとって必要なのは、「安心して間違えられる」場所ではないでしょうか。
学校は、とくに自意識が過剰になりがちなティーンエージャーにとっては、とても安心して間違えられるところではないでしょう。
私の場合、間違っても良い場所を確保するために英会話教室にお金を払っている、というふうにもいえます。でもそれは人それぞれなので、外国語習得の早道の一つは、自分が安心して間違えられる場所を確保すること、ではないかと思います。
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2009年12月19日 (土)

英語が読めなかった冬休み
サミュエルソン逝く
この前の日曜日(2009年12月13日)に、経済学者のポール・サミュエルソン氏が亡くなりました。私が学生をしていた頃にはすでに大家でありましたが、それもそのはず、93歳という長寿を全うしたのですね。
 
私の学生時代というと、石油危機以降の世界的な不況とインフレの同時進行に対する有効な打ち手がなく、ケインズ型の公共投資による景気刺激という手法への疑問の声が大きくなっていた時期でした。
当時、アメリカの大統領はレーガン、イギリスにはサッチャー首相がいて新自由主義的な経済政策が採られ、「小さな政府」という言葉が新聞や雑誌に踊っていたものです。学生の間ではサミュエルソンよりもフリードマンの著書を読むのが流行っていましたっけ。
 
「経済原論」の試験とサミュエルソンの「経済学」
大学では私は経済学部に進んだのですが、ちょっと変則的な受験制度のもとで受験時には数学の試験を受けていません(もちろん、「共通一次試験」はあったのですが...古いですね)。
高校ではちゃんと微分積分も習ってはいたし、それなりに理解したつもりではありましたが、こうした知識というのは1,2年も使わずに放置するとあっという間に錆び付くものです。
 
なので、近代経済学の教科書でも最初の概念のところはまだしも、数式が登場すると拒絶反応を起こしていました。「経済原論」という科目だったっけか。
そんな苦手な分野でもちゃんと試験を受けて単位を取得しなければ進学・卒業ができないわけで、正月休みは試験対策に励まねばなりません。
いまの学生はだいぶ真面目にやっているようですが、私は典型的なレジャーランド大学生でして(威張ることじゃないですけど)、よほど興味のあるもの以外には授業にもあまり出ずに、とりあえずは直前にノートをかき集めて試験を乗り切るという態度でした。
 
で、肝心の「経済原論」なんですが、ノートの収集が芳しくなかったのです。人脈の届く範囲内ではこの授業を真面目に聞いていた学生がおらず、何らかの方法でちゃんと勉強をせざるを得ない状況に。
冬休みがありますから、この期間で(日本語の)教科書をしっかりと読み込んで理解すれば問題ありません...なのですが、私はどこをどう間違えたのか、「サミュエルソンの『経済学』を原文で読めば、単位も取れて英語も身に付いて一挙両得!」とかバカな考えを起こしたのでした。
思えば、試験対策の本を探すために入った古書店(大学周辺にはたくさんの古書店がありました、いまはどうなのかな?)で、少し前のエディションが棚から笑いかけていたのは、おバカな私への罠だったのでしょう。
 
【もちろん】読めなかった
かれこれ1年間にわたってこのブログとお付き合いいただいているかたがたにはすぐにおわかりでしょうが、長い正月休みがあったにもかかわらず、600ページほどもあるこの記念碑的著書のうち、「たったの4~5ページしか」読めませんでした。
考えてみれば当たり前のことで、当時の私の英語力では「よく知っている事柄」でさえちゃんとは読み取れません。なのに、真面目に授業にも出ていないのに、いきなり読み始めても、理解できるわけがないのです。
 
それにしたって、ほんの数ページならば、いまなら通勤の片道で(満員電車でこの本を拡げるのはものすごく迷惑なので、実際にはやれませんが)読み終えられるでしょう。
英語力の問題以前に、両親に相当な負担をかけて通っている大学で一体何をしているのか、という根本的なところに問題があったとしかいいようがありません。少々の困難で投げ出してしまう程度のやる気しか、なかったということですね。
 
このことからわかるのは、
1)当時から私は「英語が使える自分」になりたかったようだ
2)でもそのための具体的な努力は、ちっともしていなかった
3)しかも、つい7~8年前まではずっとこれを繰り返していた
ということです。ああ、情けない。
 
教科書として書かれた基礎的な本を、一冬かけて数ページしか読めない自分のダメさ加減をきちんと認識して、足りないものを補うために動き出せていれば、きっともうちょっと違う人生があったかもしれません。タイムマシンがあったら、当時の自分自身にいってやりたいことが山ほど(でも、きっと20代の頃には、そんな説教を聞く耳などないのだけど)。
まあそれでも、こうした失敗(というか、アクションを伴わないので正確には失敗ですらない)があってようやく、いまここに立っているわけですから、おバカな判断も含めて若い頃の自分を受け容れるのが、大人の態度というものでしょう。なんのこっちゃ。
 
サミュエルソンの訃報に触れて、思い出したのは読めなかった分厚い教科書です。そのうち時間を作って、せめて一章くらいは読んでみようかな。
え? 試験の結果ですか? ちゃんと単位はもらいましたよ。なんせ優しい先生ばかりでしたから...
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2009年12月22日 (火)

最近の中学校では「英語っぽく」読んでもOK?
田舎の中学校だったからかな...
かつて、英語といえば中学校で初めて習うものでした。小学生を対象とした英語教室のようなものはあって、通っている生徒も少なくなかったと思いますが、多数は13歳にして初めて「a pen」「an apple」なんてやり始めたものです。
当時の中学校の英語教師がちゃんと英語を話せたかどうかははなはだ怪しいのですが、それでも個々の単語については英語っぽく発音して、生徒に真似をさせていましたっけ。
 
で、田舎の中学校だったからなのか、それとも私の周囲の環境が劣悪だったのか、教師のいうとおりに「英語っぽく」発音すると、休み時間にあれこれとはやし立てられるのですな。
「なんだお前、外人か?」などという、まあ、程度の低いいやがらせです。この餌食にならなかったのは野球部に所属していて成績もスポーツも万能だったO君くらいで、だいたいの生徒はこれをやられるか、あるいはその光景を見て、「英語を英語っぽく発音するといじめられる」という風潮ができあがってしまったのでした。
 
次に起こることは予想通りで、教師がどれほどがんばっても生徒たちは「あえてカタカナふうにした」発音しかしないようになります。
「Tomorrow」なんてもろに「トモロー」です。教師も何が起こっているのかは先刻承知なのでしょう、とくに原因を追及するでもありません(私がこの教師があまり好きではなかったことは、前にも書きました)。
 
「英語っぽい」は「r」の発音
生徒たちが何をもって「英語っぽい」と感じていたかといえば、やはり「r」の発音でした。あとは「ア」に近い「o」の音とか。なので、「doctor」とか、絶対に「どくたー」と日本語ふうを強調して読まねばなりません。間違っても「ダァクタァ」なんてやっちゃ、ダメです。
この「r」の発音は「th」などと並んで難しいので、何度も何度も授業中に練習させらましたから、余計に生徒の反感を買ったのかもしれません。「r」や「th」をちゃんと練習して発音しようとするのは、「教師の良い子ちゃん」というわけ。

半年もしてクラス内での勢力図がはっきりする頃には、こんな「遊び」にも飽きて英語の発音くらいでいじめの対象になどなりません。けれど、このあたりの体験が、あとあとまで「英語をちゃんと読む」ことになんとなく抵抗が残りました。
英語はずっと「不得意ではないけど、イマイチ乗らない科目」のままになったので、結局発音を矯正する機会もないままに大学を卒業、ずっとカタカナ発音のまま大人になってしまいました。今から考えるととてつもなくくだらない理由なんですが、中学校の頃はそれなりに合理的だったんですよね。

発音の修正は英会話教室で
結局私が英語の発音を自分なりに修正し始めたのは、40歳近くになって英会話教室に通い始めてからです。
ここでは老いも若きも「英語を話せるようになる」ために集まっているので、ちゃんと英語に聞こえるように発音できるように努力するのが、むしろ当たり前のことです。クラスが中級から上に進んでいくと、海外の居住経験や留学経験のある生徒とも一緒になり、とても流暢に英語を話す人とも一緒になる機会が増えました。

先日も書いたとおり、私にとってこの教室は「安心して失敗できる」「安心して恥をかける」場所でしたから、ダメダメなカタカナ発音から、モノマネ英語風発音へと自分を切り替えるのは簡単でした。4年ほど通った段階で、講師からは「発音やアクセントがずいぶん良くなった」と評価されるように。
私が4年でなんとかなったのだから、きっと多くの人たちにとっては3年もがんばれば一応英語風の発音ができるようになるんじゃないかな。もちろん、カタカナ発音でもそれなりに通じるのだからかまわないのだけど、英語の発音が苦手、というのは「失敗する自分、できない自分」を恥ずかしがっているからじゃないのかな、と思います。

そんなわけで、いまさらながらあの中学校の教室で英語をまじめに発音する生徒をはやし立てていた連中には腹を立てているのですが、その程度でめげてしまった自分がいけないわけで...
最近の中学校はどうなんでしょうね。これだけ英語教育が重視されているのだから、むしろ英語をうまく話せるほうが、クラスの人気者になれる秘訣だったりするのでしょうか。
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2009年12月26日 (土)

勉強が滞る冬休み
コツコツ型じゃなくても大丈夫、と思いたい
何の努力もせずに英語が身につきます、なんていう教材宣伝はいくらでも探すことができますが、そんなものが本当にあるのなら、誰も苦労はしないはず。やはり外国語を習得しようとするのならそれなりの努力が欠かせません。
ある程度まともな本や記事には、必ずといって良いほど「継続は力なり」「毎日15分で良いから続けること」といった記述を見つけることができます。私も、このブログで似たようなことを書いてます。

自分でも書いておいてなんですが、同時に私はその基本ができない一人でもあります。
自分のことを「三日坊主」「飽きっぽい」と何度も書いているとおり、私は気合いを入れて短期間がんばることは得意でも、少しずつ地道に毎日積み重ねることは決して得意ではありません。物心ついた頃からそうでしたから、これはもう改善はできても抜本的には直らないでしょう。
では、外国語を使えるようになるのは無理なのか? そんなことはない、と思いたいですよね。

とはいえ、教材やテクニックでは
だからといって、冒頭に触れたような「魔法の教材」や「秘密のテクニック」に頼ろうとあれこれ探し回るのは、決しておすすめできません。
なぜなら、さしたる努力や苦労もせずになにかが身につくことは、原則としてあり得ないからです。とても好きなことや、目標に向かって必死なあまりに「苦労が苦労に感じられない」ことはあり得るでしょうけど。

苦労せずに外国語を使えるようになる方法を探しているということは、すなわち「外国語習得のために苦労したくない」ということです。少なくとも、30代半ばまでの私は、そうでした。
これをほかのことに置き換えてみれば、「あまり練習せずにピアノが弾けるようになりたい」「体力を使わずにサッカー選手になりたい」といってるようなもの。まあ無理なのですが、英語となるとなぜか「なにか方法があるのではないか?」と思っちゃうんですよね、ホントになぜでしょう。

私の場合には、英会話教室に行って週に2回強制的に英語を話し、さらに宿題に(いやいやながら)取り組むことで、ようやく週に4〜5日はなんらかの勉強をする習慣がようやくつきました。たぶん、意志が弱いので自力ではずっと無理だったと思います。

英会話教室に行ってみよう、と思い立った理由もちょうど一年ほど前に書いたのですが、やっぱりなにかきっかけがないと、なかなか腰を上げるのは大変です。とくに留学とか海外赴任とか、差し迫った必要がないときには。


それでも、今月なんかはレッスンが第2週までで終わりだったために、なんだかんだとサボる日が多くなっています。ドイツ語のラジオ講座くらいは、なんとか聞いていますが。
そうそう、昨年の冬休みに「ちょっとだけ勉強してます」と紹介した本も、実は未だに終わっていません。やっと半分くらい。


この冬休みはどうしようか
語学の勉強だけでなく、たとえば「まとまった休みがあるから、この本を読もう!」などと考えて、実行できた試しがありません。私はヒマになるとだらけてしまう性格のようでして。
上記の「冬休みも(ちょっとだけ)勉強中」には「毎日ちょっとだけでも外国語の学習を続けられれば、良い年のスタートが切れるかもしれません。」なんて書いているのですが、結局元旦の夜に体調を崩し、ほとんど何もできなかったのです。
なので、この冬は取り立てて本を用意するでもなく、とくに何の計画も立てていません。

とはいえ、年内のレッスン修了から3週間近くも何もせずにだらけていては、正月明けにはまたしなくて良い苦労をするでしょう。とくにようやくクラスメートに迷惑をかける度合いが減ってきた程度のドイツ語は、ここで油断するとあっという間に覚えたことさえ忘れてしまうはず。
さてどうしましょうかねえ。ちょうど、NHK交響楽団の「第九」演奏会が始まりましたから、この歌詞でもドイツ語でちゃんと読んでみましょうか。

いやはや、この状態では、きっとこの冬もさして勉強しないのだろうなあ...
まとまった休みに、油断せずにちゃんと学習できている社会人のかたがたのノウハウ募集したいくらいです。
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2009年12月29日 (火)

今年はどのくらいやれたかな?
早くも年末
年をとると時が過ぎるのが早いといいますが、毎年のように実感しています。なんといいますか、「おめでと~」といってたと思ったらすぐに「Happy Holidays!」になってる感じ。
とにかく2009年ももうオシマイ、次の更新日の土曜日は2日ですので、これが年内最後の更新となります。
 
さして振り返るほどの一年でもありませんが、今年は語学ちゃんと頑張れたかな、ということでまとめてみたいと思います。
 
ゴガクルブログはちゃんと書いた
まずは、昨年12月に始まったこのブログがなんとか1年続けてこられました。
飽きっぽくて三日坊主なのになんとか続けられたのは、一つに読んでくださるかたがたあってのこと、二つには他のゴガクルブログライターのみなさんからの刺激のおかげ。
みなさんに感謝いたします。
 
 
一年には50週ありますから、毎週2回の更新で年に100本ほどの記事を書くことになります。
実際には、NHKエディケーションでのサーバ更新作業などもあって空白期間(5月後半)があり、少し削れる程度ではありますが、まあ、自分なりに良くやったと思います。
ときおり明らかなネタ切れとわかる苦し紛れの記事がありますが、そういうときは笑って見逃してくださると幸い。
 
英語とドイツ語の教室は
英語は以前からの継続で、毎週火曜日に50分のレッスンが続いています。
事務所が引っ越したにもかかわらず同じ教室に通っているので、実は会社を終えて大急ぎで移動しなければならないのですが、1度か2度を除いてちゃんと出席できました。
いまのクラスは、テキストのトピックについてのディスカッション(というより、「お話」程度ですが)をするのですが、春先にクラスメート型のコースへ行ってしまい、秋頃からやっと新たな生徒を迎えられました。1対1はお得なんだけど、しばしばしんどいんですよね。
 
 
いま使っているテキストは春頃に完了してしまうので、大きな変化がない限りは新たな場を探すことになりそう。同じテキストを2周するのもつまらないですしね。
7年間通った教室なのですっかり慣れてしまっているのですが、そろそろ環境を変えても良いかもしれません。
 
ドイツ語のほうは、年明けすぐまで短期の入門コースにいった後、4月から別の機関で初級クラスに通い始めました。
最初の頃は、クラスメートの視線が痛いほど足をひっぱりまくっていたのですが、最近は少しマシになってきたと思ってます。それでも、ドイツ語での受け答えはまだまだですね。頭の中で文章を完成させないと口に出せませんから、もうちょっと時間がかかりそうです。
 
 
このクラス、初級の後半から加わったのですが、とうとう12月からは中級のテキストに突入してしまいました。
まだ数回しか経過していませんが、テキストの構成が前とほぼ同じなので、かなりスムーズに移行できてはいます。少し進み方が早くなったようにも感じられるのですが、きっと気のせいでしょう。やれるペースでついていくしかないです。
 
 真新しいテキスト(2009.11.28)
 
年末にかけて新たに加わってくるかたもあり、そういう人に限って「クラスが違うよ~」というくらい基礎ができていたりしていて、気後れしてしまうのですが。
 
ラジオ・テレビ講座は
今年の初めは、ラジオドイツ語講座「謎の女」を、生まれて初めて「初回からラストまでちゃんと聴いて、テキストの問題もひととおり終える」という貴重な経験をしました。
ワールド三日坊主選手権と世界器用貧乏大賞の両方にエントリーできそうな私にとっては、これはかなり画期的なことです。
その背景には、ラジオ講座をタイマー録音して、それをiPodに入れて通勤時に手軽に聴ける環境が整ってきたことがありました。
 
 
4月からは、一週間分のラジオ講座がインターネットでストリーミング再生できるようになり、より柔軟にラジオ講座を使えるようになりました。
そうそう、2月にはラジオとテレビの語学番組の説明会に参加できたのも、貴重な体験でした。来年もあるのかな、このイベント。
 
 
4月からの上半期の語学番組ですが、すべて確実に消化しているのが「テレビでドイツ語」「まいにちドイツ語」のふたつです。
そしてすべてではないけれど録画したものを観ているのが「Trad Japan」。アットキンさんのほうが私よりもずっと日本文化にくわしいですよね。
ラジオの「アンコールドイツ語」は、「まいにちドイツ語」を優先するとなかなか時間が取れなくなりますね。まあ、テキストと録音もありますから、そのうちに。ただしハードディスクのクラッシュにはご用心を。
 
 言葉と気質(2009.6.30)
 
結局この件もあって、上半期の「ドイツ語基礎のきそ」は後半しか聴けていません。
後半の再放送「カナ手本ドイツ語」と「フェリックスの日記帳」はがんばって聴いてます。後者はテキストなしで3回聴き、内容が理解できるようになってからテキストを見てもう一度、そうでないと、ホントになぞっただけで終わっちゃいます。
「カナ手本~」のほうも、テキストなしでスキットを一緒に口ずさむようにしているのですが、通勤電車の中なのであまり大きな声を出すと危ない人です。口を動かす程度で我慢してます。
 
 
川本さんの受け売りになりますが、NHK語学講座のテキストは良くできていると、最近になってとくに感心します。とくに始めたばかりのドイツ語では、あれこれと教材を買いまくるよりも、これをしっかりとやって基礎固めするのが、いまの私には必要なことです。
 
意外に読まなかった
今年は英語の本をまとまった形では一冊も読んでいません。そもそも、通勤時間をラジオ講座に充てているので、読書量が大幅に落ちているような気がします。たぶん、月に5~6冊になっちゃってるのではないかな。中学入学以来の最低ペースかもしれません。
そんな中で登場したのが、アメリカの大手オンライン通販サイトAmazon.comの電子ブックリーダー「Kindle」です。
 
大きくてかさばるという洋書の問題点がほぼ解決される上に、携帯電話の通信ネットワークを使って「これだ」と思ったらその場で購入しダウンロードできる、本好きにとっては夢の端末。洋書読みのかたがたは一気にアドレナリンのレベルが上がったんじゃないかと。
 
 
読んだ英語は、もっぱら購読している雑誌(「Harvard Business Review」)とビジネス書要約サービス(「Soundview Executive Book Summaries」)、そして都度関心のある英語のニュースくらいです。
おそらく全部あわせても本一冊分くらいでしょう。この程度の分量では、まだまだ専用の電子ブックリーダーは必要なさそうです。新しもの好きだから、ちょっとほしいのですが。
 
本は読まなかったけれど、海外ドラマはずいぶんと観ました。
「HEROES」「ターミネーター:サラ・コナー・クロニクル」「アグリー・ベティ」「魔術師マーリン」「GSG-9」そして最近は「CHUCK」と「ビッグバン☆セオリー」。
ただし、英語音声字幕付きで放映されているのは「HEROES」と「ターミネーター」で、「GSG-9」がドイツ語です。
 
 
英語の聴き取りにもなる一挙両得のために、ぜひ海外ドラマは二カ国語字幕付き放送を基本にしていただきたいのですが、そういうわけにも、行きませんね。ドラマのDVDも映画のようにやすくなってくれれば、良いのですが。
 
来年も、マイペースにて
横着なわりには「あー、ちゃんとやらなきゃ」と焦ってしまうことも多いのですが、短期間ならばともかく無理を長続きしません。
なので、来年もマイペースで、着実に外国語とつきあっていくことになるだろうと思います。
 
ここも、とりあえず2009年中は「面白くないからクビ!」とはいわれずに済みました(いや、そんな約束になっているわけでは、ないのですが)。
とりあえずは2010年もお付き合いいただけることになりそう、みなさん、良いお年をお迎えください。来年も楽しくゴガクしましょう。
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