2011年7月 2日 (土)
誰も寝てはならぬ
トリノでおなじみ 「誰も寝てはならぬ/Nessun dorma」といえば、プッチーニの遺作「トゥーランドット」の終盤で主人公カラフが歌う有名なアリアです。 とはいえ、歌劇の中よりも数多くの歌手によって単一の曲として歌われ、とくに2006年のトリノオリンピックでパヴァロッティが歌い、荒川静香選手が採用した曲として知られているでしょう。なんでも、荒川選手は金メダルの獲得後に初めて「トゥーランドット」を観て、この歌が出てくるまでにあまりに時間が長いので驚いたそうです。 さて、今日は都内のあるホールにて、歌を趣味とするサークルの発表会に行ってきました。 第二部は著名なオペラのアリア集で、「カルメン」や「トスカ」などの超有名曲と並んでこの曲も登場しました。やはりこうした著名曲は安心して聴けます。 おそらくオリンピックなどでサビの部分だけを知っている人にとっては、この曲は「え?こんなに短いの?」という感じかもしれません。有名なサビにしても、初回はテナー歌手が歌うものの、2回目はコーラスがバックで歌うだけですし。 それでも、ラストに力強く3回繰り返される「Vincerò!」はとても印象的です。 未来形 この「Vincerò!」、未来形で「私は勝つであろう」という意味になります。英語でいえば、「I will win.」ということになるでしょうか。 意志の入った未来形だと、有名な台詞はマッカーサーによる「I shall return.」ですが、この場合の「shall」と「will」の意志の強さの度合いは、残念ながらよくわかりません。英会話教室だと、強い意志を示したい場合には「will」を使うように習いましたけど。 ドイツ語では「Ich will〜」というと、かなり強い意志の表れになるようです。どんなに反対されようとも私は〜するのだ、といったニュアンスさえあるとか。 なので、「〜しよう」くらいならば、現在形で良いはず。ただし、「誰も寝てはならぬ」のカラフはどんな障害を乗り越えてでもトゥーランドットを妻にしようという意志を持っていますから、ドイツ語でも「Ich will gewinnen!」なのでしょう。 それは勝利なのか しかし、バックコーラスでは「私たちに死が訪れる」という悲しげな声が聞こえます。 トゥーランドットは、この王子の名前がわからなければ国民を殺すと宣言し、眠ることを禁じているのです。つまりカラフは、自身の結婚(そして帝位の獲得)を国民の犠牲の上にでも成し遂げようとしているわけで、たしかに強い意志といえます。 その意志はカラフとその父に尽くしてきたリューの死によって大きく揺さぶられ、さらにその後の行動がトゥーランドットのかたくなな心を解きほぐす結果となるのですが、この結末に納得できるかどうかは議論のあるところでしょう。 さて、カラフは勝ったのでしょうか。それとも、負けたがリューの愛によって幸せを得たのでしょうか。 他には誰も不幸にならない結末だけに、リューの自己犠牲とカラフの父ティムールの不幸が際だちます。私には、世間知らずの王子による「Vincerò!」という勝利への意志が、kれに最も近い人物の犠牲の上に成り立っていることには、やはり割り切れないものを感じざるを得ません。というか、やっぱりカラフって身勝手だよな、と思うのです。なんかこう、部下をノイローゼにしながら出世をめざす挫折知らずの出世頭って感じですよね。 |
2011年7月 5日 (火)
外国語を学ぶのはクールだ
黒田龍之助さん 週末に書店に行って、しばらく前から気になっていた黒田龍之助さんの本を買いました。 著書がたくさんあってどれも面白そうなんですが、手始めの一冊は「語学はやり直せる!」(角川oneテーマ21)です。 私、実はこのかたお名前がちょっとクラシカルなのと、著書が多いので少し年受けのかたなんだと勝手に想像していたんですが、奥付のデータによるとなんと同年代でした。 さて、この本、冒頭からとても愉快です。 なんといっても、外国語の学ぶのは「クールだ」と始まっています。途中でも「損得で外国語を学ぶ」「TOEICのスコアにこだわる」といった風潮への皮肉も効いていて、読んでいて笑いがこみ上げてきます。 英語を話したいから学ぶのではなく、「出世できない」「卒業できない」といったふうに外圧に押されて勉強してもきっと楽しくないし、嫌々取り組んでいる姿はクールとはいえません。 なにが「クール」なのか 外国語を学ぶのが好きな人にとって、それが「クール」なのは当たり前かもしれません。 ここでクールといっているのは、なにも外国語を流暢に話せることがカッコイイ、ということだけではなくて、趣味としてのかっこよさが、外国語にはあります。 私が思うに、ある程度続けて努力しないと身につかない、取り組み対象としての難しさがあることは、クールな趣味の条件のひとつだと思います。料理だって歌だってそうでしょ。 それに、この本の中でも指摘されていますが、外国語をきちんと話せるには、まず母語をきちんと使えることが必要というところもかなりクールです。 ようは、話す言葉がその人の言葉や知識、あるいはコミュニケーションに対する姿勢を雄弁に物語っちゃうわけで、これは怖さであると同時に、面白さでもあります。日本語を話すときにはとても思慮深いのに、英語を話すと突然短慮で感情的になる人って、きっと希ですよね。人の本質は使う言葉に表れます(なので、つい最近辞意を表明した復興相、きっと根っからああいう人なんでしょう)。 楽しいばかりじゃなく、難しさや扱いにくさを持っているからこそ、言葉はクールなんだと私は思います。 だからこそ、(いささかしつこいですが)「毎日聴いているだけで英語がわかるようになる!」なんていい魔法の杖みたいな教材は、私は信じられないし、そういう商売は「ものすごくカッコワルイよね」と思っちゃうのですね(もちろん、使っている人を非難するワケじゃありません。カッコワルイのは商法)。 学習者にも、教育者にもお勧め 「語学はやり直せる!」ですが、学習者だけでなく教育する側に向けたメッセージにも、多くのページが割かれています。 こう書くと、「じゃ、私には半分関係ないかな」と思われるかもしれませんが、教育者の視点は、たとえば親として我が子の英語(あるいは他の外国語)教育を考えたり、社員の英語力の強化を考えたりする立場などとも共通する要素が多いと思います。 自分が学ぶ、という視点だけでなく、人がどう学ぶかを考える視点も、外国語をめぐる議論には重要です。 人はともすると、「教師が」「学校が」「文科省が」「国が」といった「自分以外の誰か」のせいで英語が話せないのだ、という安易な結論に飛びつきがちです。だってラクだもんね。 でも、そうやって責任を負わされる立場に立って、一体何が難しいのかを考えることって重要だと思うのですよ。なので、「この章は関係ないや」と思わずに(そもそも厚い本ではないので)しっかりと読むのをお勧めします。 読後の感想は人それぞれでしょうが、やはり大切なのは「外国語を学ぶのはクールだ!」と喜ぶことじゃないかと思います。「外国語を学んでいる私」がクールかどうかは、いささか疑問ですけれどね。 |
2011年7月 9日 (土)
暑くて勉強できません
なんと室温35度 梅雨明けだそうですね。なんだか梅雨入りが早かった割には、雨自体は少なかったように感じます。 梅雨明け一週間はだいたい暑くなるのですが、今日も日中暑くなりました。私の住むところでも最高気温は35度だったそうです。で、エアコンをつけずに窓と玄関を開け放っていたら、室温も35度。湿度は60%弱。かなりしんどい、というか限界です。 というわけで、今シーズン初めてエアコンをつけることにしました。 こう暑いと、自宅でゴガクルのはかなり困難です。 私の勉強机はエアコン取り付け位置の関係から室内で一番熱気がたまりやすい場所にあって、室温が35度だと、プラス1度はかたいところ。 紙類は汗でくっつくし、汗は流れてくるしでさすがに勉強になりません。 そもそも室温35度では、水分補給に励んだとしても頭のほうはボーッとしたままです。 こんなときこそ 私の住まいは最寄り駅まで徒歩3分という、便利なだけが取り柄の場所にあります。 駅の近くにはミスタードーナツがあって、ここならコーヒーをお代わりしながら長居できます。自宅で一人のためにエアコンを使っているのではなく、弱めにしているとはいえ、空調の効いたお店で勉強したほうが省エネになるはず。 そんなわけで、今日も15時過ぎからでかけていってドイツ語教室の宿題をしていました。 もちろん近くにあれば図書館でも良いのですが、図書館の中ではさすがにドーナツとコーヒーを手元に置いておくわけにはいきません。 店内は静かとはいえませんが、iPodで音楽を流していれば気にはなりません。週末1,2時間勉強するにはうってつけの場所といえるでしょう。 涼しくゴガクルしよう いつも同じ場所でないと勉強できないかたもいらっしゃるかもしれませんが、私はこんなふうにときおり場所を変えたほうがはかどります。 今日はある程度集中して文章を読まないといけない問題だったので、涼しい場所に逃げたのは大正解でした。作文も20分ほどで終わりましたし。 暑い季節には、ドーナツショップに限らず、行きつけの喫茶店でもいいので、道具をもって涼みながらの勉強が、きっと効果的ですね。 明日もやろうかな。 |
2011年7月16日 (土)
Oyster, Auster
世界は私の牡蠣 シェークスピアの作品、「ウィンザーの陽気な女房たち/The Merry Wives of Windsor」の一説に、「The world is mine oyster.」という一節があります。 主人に金を無心して断られたチンピラが、ならば剣に物言わせて、あたかも貝をこじ開けて真珠を取り去るように奪い取ってやろうかとすごむ場面です。ここから、「世界を意のままにする」という意味になるのだとか。 ちなみにこの台詞は東京ディズニーシーのとあるアトラクションにも掲げられています。 さて今日はちょっと早めの夕食で牡蠣を食べてきました。 実は、数年前の年末に焼き牡蠣をおいしくいただいた直後に強烈な腹痛でお正月を棒に振って以来、生牡蠣であろうとフライであろうと、食べると必ずおなかの調子がちょっと狂います。それでもおいしいので食べるのですが、これは心理的なものなのでしょうか。 これを書いているいまも、ちょっとおなかが重たく感じます。 この季節に食べられるのは岩牡蠣ですが、今年は残念なことに三陸の牡蠣を楽しむことはできません。 今日のお店では、特定のワインを一本注文すると、漁船を購入するための資金として寄付ができるというので、白ワインをいただきました。ただ、寄付は一本あたり100円とのこと。もうちょっと高くしても良いので、500円か1000円くらいの寄付で良いですよ、と思わないでもありませんが、それだと売れなくなっちゃうのか。 Eusterじゃなかった さて、英語で「Oyster」なんだから、ドイツ語ではきっと「Euster」なんだろうと思いきや、ちょっと違っていて「Auster」でした。 辞書に掲載されている例文は「eine Auster aufbrechen」で「カキの殻をこじ開ける」とのこと。やはり牡蠣の殻は刃物を使ってこじ開けるものなのでしょう。レストランでは、すでに開けられたものをするりと食べるだけなんですけどね。 生の牡蠣をこじ開けるのは、「意のままに」というほど簡単ではないようにも思えます。 牡蠣とは違いますが、ホタテを捌くのだってけっこう大変で、素手でやっていると指先に小さな傷をたくさんつくったりしますね。牡蠣だって貝柱を切らないと開けられないのは一緒のはずなので、おそらく似たようなものでしょう。 それでも、「The world is mine oyster.」という表現が出てくるからには、ナイフを使えば造作もないことなのでしょうね。 調べるついでに、シェイクスピアの文がドイツ語にはどう訳されているかというと、こんなのが見つかりました。 「Dann ist die Welt mein' Auster, Die ich mit Schwert will öffnen.」 まんま訳しただけ、という感じです。ドイツ語で「Die Welt ist meine Auster.」といったときに、「世界はわが意のままに」なんていう意味があるのかどうかはすぐには調べがつきませんでした。 最後に笑うものが この「ウィンザーの陽気な女房たち」は、ジュゼッペ・ヴェルディの最後の作品である「ファルスタッフ」の原作であることもよく知られています。 残念ながら、ヴェルディのオペラには冒頭の牡蠣の一説は登場しません。徹頭徹尾身勝手で自己陶酔甚だしい騎士ファルスタッフが、ちょっかいを出した女性たちにとっちめられつつも、最後は全員が笑って終わるこの作品は、数少ない喜劇オペラの傑作です。 世の中はすべて冗談、人はみないかさま師、最後に笑うものが本当に笑うもの、というラストの合唱を聴くたびに、ポジティブな許しの力強さが心にしみいる作品です。 復讐といっても相手を破滅させるものではなく、だましたものとだまされたものとがお互いに肩を抱いて生の喜びを歌うこの作品を人生の最後に残せたのですから、ヴェルディという人は苦難はあっても幸せな人生を送った人だったのだと思います。 |
2011年7月19日 (火)
日本語から考える外国語表現
泳げるようになった 「〜できるようになる」というのは、外国語で言い表すのに苦労する言葉の一つですね。 「英語ができるようになりました」と英語で言いたいとしましょう。「〜になる」は「become」なので、「I became〜」と言い始めて、「英語を話せる」なので「〜to speak English.」と言えばいいのでしょうか? いえ、違いますよね。 そもそも「話せるようになりました」は「話せます」なのですから、「Now I can speak English.」と言っちゃえばいいわけです。以前はダメだったけど、いまは話せます。 こんなふうに「〜になる」という日本語の表現を、できるかぎりニュアンスを活かしながら外国語で表現してみよう、という本があります。 白水社という会社から出ている「日本語から考える○○語の表現」というシリーズ。これまでにフランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、中国語そして韓国語が出版され、英語とポルトガル語が続刊予定。 我が家には当然イタリア語とドイツ語があるのですが、この本、外国語表現を問う日本語のお題の部分はすべて同じです。山田敏弘さんという日本語の専門家が日本語に独特な表現方法の解説を2ページで行い、それぞれの外国語の専門家が対応した外国語表現を解説してくれるというもの。ドイツ語は清野智昭さんが担当しています。 直訳しない 対象者としては、一通り文法の学習などを終えた中級クラスが想定されているようです。 このため、登場する単語や文法に関する解説はほとんどなく、もっぱら日本語のお題をいかに外国語に写し取るかの工夫が中心です。ただ読み進めるのではなく、お題が出たところで一通りドイツ語訳を試みるのですが、半分くらいは予想できなかった表現方法が出てきます。 間違うケース(といっても、この場合「ニュアンスを写し取る最適解」であって「正解」ではないのでしょうが)は、やはり日本語の表現に引きずられたケースが多いです。 冒頭に書いた「I became〜」みたいなパターンですね。 日本語はドイツ語やイタリア語とは違う言語なのだから、独特の表現をそのまま直訳したって、珍妙な表現に聞こえてしまうのはやむを得ません。 中学校のころに図書館で、やたらに「〜という、それは感覚であった」などという、おそらくは「It was a feeling that〜」あたりの文を直訳した表現が頻出する小説を読んだことがあります。 話の筋がどうという以前に、この「異様な」日本語を平然と世に送り出した翻訳者と出版社の発想を疑ったものでした。 でも、私たちが外国語でなにかを表現するとき、まったく似たようなことをやっていることが多いのでしょうね。 違う言葉=違う表現アプローチ 言語そのものが違うのだから、表現したい内容を表すアプローチは当然異なります。 私がドイツ語で未だにうまく使えないのが、「noch」「nur」「schon」「aber」「mal」などの、文の途中においてニュアンスを付け加える語群です。 ドイツ語では、こうした語によって話し手の感情や立場などをうまく伝えますね。 これらが使い分けられるようになって初めて、会話としては初級脱出かな、と思っているのでまだまだ道のりは遠いです。 母語である日本語でなら、造作もないニュアンスの伝達が、外国語ではとても難しい。 これはまあ当たり前のことで、外国語が母語と同じようにすぐに苦労なく使えるなんてことは、あり得ないわけです。運と努力と才能がそろっていれば比較的短期間でも可能かもしれませんが、だいたいは一つか二つしかそろわないので、あとは時間をかけて訓練するしかありません。 とはいえ、なにも目標や道しるべなく闇雲に苦労を重ねてもしょうがありません。 学問に王道なしとは言いますが、多少効率的な方法はあるはず。この「日本語から考える〜」のシリーズは、何度も読み返し、例題を外国語で表現しながら解説を繰り返し読むことで、多少なりとも近道がたどれる可能性があります。 1900円とやすくはないものの、一回飲みに行くのを我慢したと思えば余裕です。夏休みの学習教材として、いかがですか? |
2011年7月26日 (火)
会話は何語でしようか
バルセローナにて もう20年ほども前になりますが、当時の上司から借りて読んだ本がきっかけで堀田善衛氏の本を何冊か続けて読んだ時期がありました。 その上司、部下に本を貸してくれるのはよいとして、感想文を求めるという変な癖があったらしいのですが、私はそういった課題を課されることもなく、ただ借りて読むだけですんだのは幸いでした。 読んだとはいっても、氏の代表作である「ゴヤ」や「ミシェル城館の人」などは未読のまま、むしろ、スペインでの生活を題材とした半ばエッセイ、半ば小説といった体の作品ばかりを選んで読んでいました。 そのうちに、題材としてたびたび登場するスペイン内戦に関心が移り、幾多のノンフィクション作品や「カタロニア賛歌」などに進むうちに、私的な堀田善衛ブームはわりと短期間で終わってしまいました。 今朝、通勤電車で読む本を探していて本棚で手招きしていたのが、当時読んだ「バルセローナにて」という連絡短編集です。 久しぶりに開きましたが、いきなり引き込まれて往復で再読完了。 「会話は何語ですることにしようか」 この本には3つの作品が収録されていますが、最初の「アドリン村にて」の冒頭近くで登場するニコラス氏の言葉がこれです。 続けてなんと、ニコラス氏は「スペイン語、ポルトガル語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ハンガリー語、ギリシャ語、ロシア語、アラビア語でもいいよ。どれがよいか。自分はどれでもよいが、日本語だけは残念ながら出来ない。」とのたまうのですね。 あげられているだけでも10カ国語です。 ヨーロッパの言語は相互に似たものがあるとはいっても、ロマンス語、ゲルマン語、スラブ語ではかなりの違いがありますし、これらの言葉を習得し、使い分けるのは至難の業でしょう。少なくとも私自身はこれまでにこんな人にはお目にかかったことがありません。 これだけの言葉を、この男性は「みな必要に応じてのことで、覚えようとして勉強したことは一度もなかった。必要がそうさせただけなのだ。」といいます。 生きていくために10カ国語以上の習得が「必要」であることが幸せなのかどうかは、私にはわかりません。というか、幸せかどうかは個人の感じ方次第でしょう。 けれど、日本で日本人として生きていると、こうした感覚はなかなか実感として理解しにくいものです。 「あとは英語だよ」 こちらの言葉は、15年ほど前に、会社の仕事にまったく関心が持てずに転職を考えていた時期に、お世話になった転職コンサルタントのかたからいわれたものです。 それまでの経歴と経験、自分なりの強みをまとめた職務経歴書を手渡した数日後に、自分にできることをきっちりと客観的にまとめられている、という評価をいただいたあとで、「あと一つ足りないとすれば、英語だよ」といわれたのでした。近い将来、必ず英語が必要になるから、と。 私が実際に英語の勉強を始めたのは、それからさらに6年後のことです。 始めたきっかけはここにも書きましたが、別段英語がどうしても「必要」になったわけでもなく、実にくだらないことです。 けれど、実際には上記のコンサルタントからの言葉が、私の中でくすぶっていたのでしょう。今すぐ必要ではないかもしれないけれど、人材コンサルタントの目から客観的に見て、私にもっとも足りないものが英語でした。それは自分でも十分理解できていたけれど、面倒だしおっくうだし、なによりもいまさら初級からなにかを始めたくない、という気持ちから始められずにいたものでもありました。 実際のところ、未だに英語は私にとって仕事上は「必要」ではないままです。 その意味でコンサルタント氏の「予言」は的中しなかったわけですが、結果としては長いこと持ち続けた「英語ができない」というわだかまりが解消できたのですから、大いに感謝しています。 |
2011年7月30日 (土)
何語で歌う?
北欧スペシャル! わが家ではただいま、BSプレミアムで北欧特集のABBAの番組を観ています。 40代から50代のかたがたは彼らが売れ始めたころからのファンも多いことでしょう。最近になっても人気は高いようで、世界最高のバンドの一つといって過言ではありませんね。 以前何かの記事で、ABBAが世界的に成功した要因の一つとして、ほとんどすべての曲で歌詞を英語にした、ということが挙げられていました。英語で歌ったがゆえに、世界中のマーケットを対象にできたというのです。 曲の特性もあるでしょうが、彼らの歌は英語を母国語としない者にとっても非常に聞き取りやすく、歌を通じてのリスニングにもぴったり。英語圏だけでなくファンを獲得できたのも当然といえそうです。 これが彼らの母語であるスウェーデン語であったら、こうはいかなかったはずです。英語以外の言葉で歌われた歌が、世界の多くの国々でヒットすることは、皆無ではないにせよ例外的。 最も多くのマーケットにアクセス可能な言葉を選んだことが、ABBAに成功をもたらした要因の一つであることは間違いないでしょう。 モーツァルトのオペラ オペラの世界での世界共通語といえば、やはりイタリア語です。 もちろん現代ではイタリア語はオペラ界にあっても最も重要な言葉ではあっても、唯一の言葉ではありません。しかし、モーツァルトの時代にはオペラといえばイタリア語で歌われるものでした。 彼が作曲したオペラのうち、特に人気が高く、今でも数多く上演されているのは「ドン・ジョヴァンニ」「フィガロの結婚」そして「コシ・ファン・トゥッテ」でしょう。 台本作家の名前から「ダ・ポンテ三部作」とも呼ばれるこれら三作品こそ、モーツァルトのオペラにおける到達点といって良いように思われます。これらのほかに著名なものとして「後宮からの逃走」と「魔笛」があり、ドイツ語で歌われますが、これらはオペラではなく「Singspiel」すなわち「歌芝居」と呼ばれます。 モーツァルトの時代にあっては、オペラをイタリア語台本で作ることは、現代においてポピュラーソングを英語で歌うのと同じ意味があったのでしょう。最大のマーケットを狙えば、「そこそこのヒット」であっても、狭い市場での「空前のヒット」よりも商売は大きくなります。 最近ではアジアの歌手が日本市場を狙って日本語で歌うことも少なくありませんね。 もしかしたら、10年20年後には日本人の歌手も中国語で歌わなければ商売にならない時代がやってくるのかもしれません。 |