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人生まだ半分、37才からの外国語
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英会話教室や雑誌、ネットなど、ごく普通の環境だけで始められ、続けられる外国語学習の記録と秘訣を伝えていこうと思っています。
 

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人生まだ半分、37才からの外国語

2011年6月 4日 (土)

3ステップ旅行外国語
ステップ1「ビールを注文」
別にタイトルに書いたような学習メソッドがあるわけじゃありません。何となく期待されたかた、ごめんなさい。
私が英語やドイツ語を学習するうえで、非常におおざっぱにではありますが自分なりの短期ゴールとして設定しているのが、3つくらいのステップで整理できそうだな、と思っているだけです。しかも、この先もあるのでどんどん増えそう。

ひとまずの第1ステップは、「ビールの注文」です。
ビールでなくても、コーラでもオレンジジュースでも、あるいはチーズバーガーでもかまいませんが、とにかくレストランでメニューを指さすのではなく、ファーストフード店などで言葉だけで注文ができる状態、これくらいを私は最初の目標にしてました。
ひとことで注文がすむケースもありますが、「持ち帰りかどうか?(Here?  to go?とか訊かれますね)」「サイズは?」「他になにかいるか?」など、たいがいはあれこれと質問を受けます。これをなんとかクリアできると、けっこう満足感があります。

この段階では、リスニング力をつけるというよりは、よく使われるフレーズを覚えておけば、ちゃんと聴き取れなくても一つ二つの単語から対応が可能です。
英語ではありませんが、先日フィンエアーの機内で飲み物が回ってきたので、「Kahvia, kiitos.(コーヒーをください)」と頼んだらなにか早口のフィンランド語でききかえされました。わかったのは「Maito」だけ(たぶん実際にはその変化型だったはず)。これはミルクのことですから、たぶん「ミルクと砂糖は?」ということでしょう。「Ei, kiitos.(いいえ、けっこうです)」と答えられました。
フレーズになれておけば、あとは一般常識(日本語でも訊かれることはだいたい同じ)と多少の勘があればなんとかなりますね。

ステップ2「世間話を3分」
ステップ1は、多くても2往復くらいの会話です。それに、こちらはお客の立場なので相手の言葉がわからなくてもなんとかしてもらえることが多いです。
第2番目のステップは、対等な立場での会話です。たとえば、バスなどを待っているときに話しかけられ(こちらから積極的に話しかけても良いのですが)、数分の立ち話をするのが課題です。

バス待ち中になんて話さないよ、と思うかもしれませんが、これは場所によります。
たとえば私が良く行く旅先の一つ、Walt Disney Worldなんかだと、みんなのんびりとリゾートにやってきているのでほとんどの人たちが上機嫌です。でも、バスは運が悪いと20〜30分くらい待たされるので話しかけられることも結構あるのです。
こんなとき、曖昧な笑みを浮かべつつ「I'm sorry...」と逃げてしまうのは簡単ですが、考えようによっては絶好のチャンスです。無料で会話の訓練ができるのですから。

だいたいは「どこからきたの?」なんて話になりますから、日本のどこどこだ、とか、あなたはどちらから? といった決まり切ったやりとりを5〜6往復すれば1〜2分の会話になります。お天気の話でも良いですね。
それだけではさすがに3分は難しいので、オススメのレストランはあるか、とか、新しいショーの○○はもう観た? なんていう話を切り出してみるのも良いでしょう。
このステップができたなあ、と思えたのは、英会話教室に通い始めて2年目くらいのことでした。ちなみにドイツ語では、まだ最初の1〜2分を突破できていないくらいです。よほど共通の話題があれば別でしょうけど。

ステップ3「テーブルメイトと楽しく会話」
このステップ3が、とりあえずの私の英会話の目標でした。英会話教室に通い始めて5〜6年目で、何となくめどがついてきたかな、と思えたので決してものすごく高い水準ではないと思います。
テーブルメイト、というのは聞き慣れないかもしれませんが、クルーズ船に乗ると必ず遭遇する状況です。自分たちの家族やグループで一つのテーブルを占拠できない場合、他の家族と同じテーブルでの食事となります。この相手がテーブルメイト。

クルーズ船によって違うかもしれませんが、Disney Cruise Lineでは原則として毎日同じメンバーと顔を合わせます。
なので、ここで会話がなにもできないと相手にとっても旅の楽しみがちょっと減じてしまうというプレッシャーがかかってきますね。お互い貴重なバケーションなのだから、最大限楽しみたいもの。

会話の内容はいろいろですが、ステップ1や2との大きな違いは1時間以上のあいだそこからは逃げられなくなる、ということです。食事が終わるまで黙りこくっているわけにはいきません。
もちろん、ネイティブ・スピーカー同志での会話が始まってしまうと内容が見えなくなる瞬間は何度もやってきます。だって、食事をしなくちゃならないので、そうそう集中して聞いてもいられませんから。それでも、どこかで会話の糸口をつかんで入り込むのが大切。
いつも成功するわけではなく、「うーん、困ったなあ」と思っていると話題が切り替わって助かった、なんてことも多いです。

私は仕事で英語を使うわけではないので、ひとまずこの状態が自分なりのゴールと感じたので、いまはこれを維持できれば良いかな、という気持ちが強いです。
これ以上になると、語彙や表現を豊かにしてより自然な英語をめざすとか、専門的な領域についてディスカッションができるようにするとか、かなりハードルがあがってしまいそうですしね。
あとは、なにかトラブルがあったときにこちらの意見を強く主張できるようにする、というのはがんばっても良さそうですが...

もちろん、私の英語は実際には語彙も表現力も不足で、ときおりスイッチが切れたかのように言葉が出てこなくなったり、というのが日常的。決して「英語は任せてください」なんていえる状態ではありません。
とりあえず旅行を楽しめるようにはなってきたので、次は縦に深める(英語力を磨く)か横に広げる(他の言葉を少しずつ習得)か、限られた時間をどう使うかは自分なりの選択。
今のところ、英語の次のハードルをもうけるよりは横に広げる方向で、ドイツ語でもあと数年をかけてこのくらいの水準をめざすか、あるいはより多くの言葉でステップ2くらいをめざすか、迷っている最中です。

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2011年6月11日 (土)

英語が趣味です、で悪いの?
ムラ社会が苦手
日本はムラ社会だ、閉鎖的だ、なんてよくいわれますが、それが心地よいと思っている人はそれほどは多くないのではないでしょうか。
みんなと一緒、横並び、というのは競争がないぶん楽ではありますが、はみ出してしまうことを恐れながら暮らすのは ― それを一度意識してしまうと ― 逆にストレスの多いものです。そのストレスが今度は「はみ出しているあの人を『修正』しなければ」になってしまうと、悲劇に悲劇を重ねることに。

私は窮屈な関係が嫌いなので、団体行動がとても苦手です。旅行もツアーには入らずに行き先、宿、移動手段をすべて自分で確保します(インターネットのおかげですけどね)。
会社では、オフィス全体での行事があってもなるべく言い訳を作って参加しません。ときには仕事を円滑に進めるために出かけて行って、ニコニコしながらじっと時間が過ぎるのを待ってることもあります。

こんなわけですから、最近の川本さんのブログ記事は衝撃!


なんと、「英語の勉強を始めたら、陰口の対象になっていた(超まとめ)」というもの。うっそー、という感じですが、よくよく考えたらありそうな話とも感じます。
きっとご本人にとってはとてもストレスのたまる環境でしょう。だって、英語の勉強したからって誰にも迷惑はかけません。世の中には周囲を巻き込んで迷惑をまき散らし、本人だけがご満悦、という「趣味」はいくらでもありますが、おそらく英語の勉強は無害の極といってもよいでしょう。

なぜただの「趣味」にならないか
「一か月後に海外赴任!」とか「TOEICのスコアが昇格に影響」なんていう人たちを除けば、英語はヨガや読書や韓流ドラマと同じく、単なる趣味です。
何か迷惑をこうむっていない限りは、人の趣味に文句をつけてよい理由など存在しません。家族を顧みずにゴルフに明け暮れている部長さんがいても、それはその家族の問題です。相談を受けたわけでもないのに「それはまずいんじゃないですか?」などと口出しするようなものではありません。

では、なぜ英語だと嫌がらせや陰口の対象になることがあるのか?
乱暴にいっちゃうと、「それだけ多くの人たちに英語コンプレックスがあるから」ではないのかな、と思います。英語は気になる、話せないとなんだか時代に遅れている気がする、あるいは英語が得意な人は何か特殊な才能や環境に恵まれた人に思える。
なので、「英語ができない仲間」から離れようとする人が目の前にいるのはちょっと面白くない、てな感じ?

世の中のたくさんの人たちが「英語は気になる」「でも勉強しようとは思わない」。
だからこそ、ただCDを聞き流しているだけで「自然に英語が口から出てくる!」なんていう、はなはだ効果の疑わしい教材が評判になっちゃったりもするのでしょう。
こういう教材がよろしくないと思うのは、たまたま相性よく学習成果が出る人たち以上に、「結局何をやってもダメだった」という無力感を味わう人たちのほうがずっと多いように思われるからです。なにかを習得するために、まったく苦労しなくてよいなんてことが、あるはずがない(苦労を苦労と感じなかった、ということならあるでしょう)。

でも趣味だよね
おそらく、日本人は世界中の先進国の中で、もっとも生活するうえで英語の必要度が低い国の一つじゃないでしょうか。
生きるために必要でない限りは、やっぱり英語は趣味です。趣味である以上は、やっぱり生け花やパッチワークやフェルト人形と変わらない。英語を陰口のタネにするのは、英語学習者が悪いのではなくて、陰口をたたく人の心の問題です(まあ、陰口ってそういうものだけど)。

趣味を持つだけであれこれと干渉を受ける生活環境は、とてもストレスがたまるものだと思います。
だからといって、さっさと引っ越すなんてことは簡単ではありません(簡単なら、もうやってるでしょうしね)。なので、やるべきことは「同じように感じている知人を作る」ことでしょう。
普段から顔を合わせられる関係でもよいし、オンラインだけのつながりでもOK。同じように外国語を趣味として、ときおり陰口やら嫌がらせに遭遇しつつも、正面から受け取らずにいなせる人たちとの関係を作ることが大事なんじゃないかと思います。

思い起こせば、私も英会話教室に行き始めたころはとにかく聴けない、話せないだったので、何度も途中で嫌になりました。
それでも続いたのは、教室に行くと自分と同じくらい苦労していて、きっと同じように「嫌になってる」人たちに会えたからです。友人といった関係ではありませんでしたが、軽い連帯感のようなものはあるわけです。
日本人にとって「英語なんて特別じゃない」ものになるには、地域差もあるでしょうが、もうしばらくかかりそうです。なので、当面は仲間をできるだけ増やす、という工夫は、ストレスをため込まないために大事ではないかと思います。

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2011年6月14日 (火)

嫌いな嫌いな形容詞の語尾変化
嫌ってもしょうがないけど
外国語の勉強をしていて、どうしても身につかないことってありませんか?
私にとっては、ドイツ語の形容詞の語尾変化がその一つです。単純に「dieser」型の変化型で終わってくれるならまだしも、冠詞の有無によっても変わってきます。結局は覚えて練習しないと使えるようにはなりません。

ただ、20代のころなら変化表の丸暗記でもなんとかなったのでしょうけど、最近ではそうも行きません。表を眺めて憶えようと思った途端に睡魔が襲ってきます。
口に出して何度も読んだって、その効果は若いころに比べるとずっと低いままで、ともすれば機械的に朗読しただけでちっとも頭には入っていません。昔は、それでも意識せずに記憶に残っていたものだったのですが。

身につかないものは嫌いになります。
ただ、問題は嫌ってもなくなってはくれないこと。高校や大学の受験ならば、英語の試験ができないぶんを数学や歴史や現代国語でカバーすれば良かったのですが、おとなになって「英語を学ぶ」「ドイツ語を話せるようにする」こと自体が目的になっては、「嫌いなことはやらないで済ませる」のにも限度があります。

解決策その1〜流れで覚える
「Eine kleine Nachtmusik」ってご存じですよね。
そう、モーツァルトのセレナーデ第13番、聴けばほとんど誰もが一緒に口ずさめるほど有名な曲です。
この曲名の「Nachtmusik」は「夜の音楽」、「Musik」と同様に女性名詞です。女性名詞の単数主格の場合、不定冠詞はもちろん「eine」で、続く形容詞も「kleine」と「-e」が付加されます。とりあえず、女性名詞の場合には「Eine kleine」「Eine schöne」なんだと覚えられます。

「良いお天気ですね!」という意味の「Schönes Wetter, Heute!」
Wetterは中性名詞です。このフレーズを覚えれば、定冠詞がなく中性名詞の単数主格であることを示せない場合、形容詞自体がその印をつけなければならないことを記憶にとどめられます。
こんな感じで、とりあえずは自分がよく知っているフレーズや表現を思い出し、法則に当てはめることで、多少なりとも記憶にとどまりやすくなります。

英語でも、「仮定法過去」といわれてピンとこなくても、「If I were a bird, I would fly to you.」というフレーズさえ覚えておけば、そこから応用できるのと同じです。

解決策その2〜とにかく使う
丸暗記ができないのですから、とにかく身につけるには練習あるのみ。使う機会が増えればその分だけ覚えられる確率が上がります。
そこで、身の回りにあるものをどんどんと表現していくのです。

朝起きて眠くてしょうがなければ、「Ein müder Mann」です。テレビをつけるとそこには「Eine schöne Ansagerin von NHK」が。
今日は雨模様らしいので「Schlechtes Wetter, Heute」、お気に入りの黒い傘を手にとって「Den schwarzen Regenschirm」を持っていきましょう。いつもの小さな駅「Der kleine Bahnhof」から黄色い電車「mit einem gelben Zug」に乗って会社へ。

こんな具合に目にするもの、自分がさわるものを次々に「(冠詞)+形容詞+名詞」で表していきます。場合によっては電車の例のように前置詞を付け加えたり、文章に仕立ててても良いと思います。
もちろん、最初はすぐには出てこないのだから(すぐに出てくるんだったらこんな訓練不要です)、ポケットに虎の巻を忍ばせておいて見直しながらでOK

文法解説書の一覧表をじっとにらんで暗記ができるのは、10代20代といった若者だけの特権です。
丸暗記に頼れなくなったら、そして学習時間が限られているなら、日常の生活の中でなにかが身につけられるように工夫するしかありません。いってみれば、自分の生活を学んでいる外国語で「実況中継」するわけですね。
最低限の単語を覚えていないとすぐにネタが尽きちゃいますが、参考書も教材も不要な、それでいてけっこう効果的な勉強法だと思います。といっている割には、形容詞の語尾変化、未だによく間違うのですが。

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2011年6月18日 (土)

今日の夕食は「Ratatouille」
その邦題に異議あり
映画といえばおかしな邦題はつきものですが、最近では、無理に日本語に直さずに、原題をそのままカタカナ表記するものも増えてきました。
しかし、「わかりやすかろう」とつけられる邦題が内容をねじ曲げてしまうのは考え物で、たとえばディズニー/ピクサーの「The Incredibles」など、引退した元ヒーローが「家族とともに」新たな出発をするところが感動を呼ぶところなのに(だからこそ、原題は「Incredibles」と複数形になっている。つまり主役はボブ・パーの家族全員)、邦題は「Mr.インクレディブル」とあっさり家族を無視。

ピクサー関係では他にも不満があって、原題の「Ratatouille」には、作中に登場して大きな転換の場面を演出する料理名と、その奇跡の味を生み出したシェフの秘密とがかけられています。何度見てもうまくつくられたタイトルです。
それがなんと、邦題は「レミーのおいしいレストラン」となってしまい、原題の洒落がまるごと消え去ってしまっています。これはもう少しなんとかならなかったものか。

ピクサーへの文句ついでにいえば、邦題がダメなだけの上記2作とは違い、「モンスターズ・インク」がなぜこれほどまでに評判がよいのか私にはわからないのです。
この作品、最後のワンシーンがすべてを台無しにしてしまっていると思うのです...

綴りにほとんど変化なし
さて、この「Ratatouille」はみなさんご存じのとおりフランス料理の一つで、野菜の煮込みです。
ナスやズッキーニなどの夏野菜をふんだんに使い、トマトソースで仕上げると、ご飯のおかずにも良ければパンにつけてもおいしく、パスタやオムレツのソースにもなる、ある意味万能料理。

この料理名がドイツ語では何というのだろうかと、Google翻訳で見てみると、なんとそのままの綴りで読み方がドイツ風になるだけ。
ヨーロッパの他の言語で調べてみても、ほぼ綴りはそのままです。おそるべしラタトゥイユ。

まあこれはラタトィユに限らず、たとえば「すき焼き」だってどこへ行っても「Sukiyaki」で、読みが現地ふうになるだけです。きっと「すし」だってそうでしょう。わざわざ現地語に翻訳したり、新しい単語をつくって当てはめるよりは合理的です。
ドイツ語だと「ズキヤキ」「ズシ」になるわけで、あんまりおいしそうに聞こえませんけどね(ドイツ人にはおいしそうに聞こえるんでしょうか?)。

Ratatouilleとcaponata
では、イタリア料理の、ほとんどラタトゥイユと区別のつかない「カポナータ/caponata」をフランス語にしてみたらどうなるのか?
Google翻訳によれば、「caponata」のまんまでした。読みはやっぱりフランス風ですが。
でも、実際にフランスに行って「カポナータください」といってもダメで、「うちにはラタトィユしかないよ」などとあしらわれそうな気がします。偏見でしょうか。

これら二つの料理、いったいどう違うのか私にはまったくわかりません。
きっとつくった本人が「これはラタトィユだ」と思っていれば、それはカポナータじゃなくてラタトィユなのでしょう。旅行先で「スシ」として売られているものが、どう見ても「寿司」とは別物であることは少なくありませんが、それでもきっと作り手と食べたひとが合意していれば「スシ」なのでしょうし。

ごめんなさい、土曜日の午後だというのに書くことが考えつかなかったので、今日もまた語学学習とはあまり関係のない内容になっちゃいました。
蒸し暑くてばてやすい季節なので、今日の夕食は野菜をたっぷりと食べられるよう、ラタトィユをつくろうと思います。さて、そろそろ野菜を切り始めなくちゃ。
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2011年6月28日 (火)

ふたつの二人称「Du」と「Sie」
Duzenしないで
以前にも書いたと思いますが、ドイツ語教室でなにが困るといって講師とのduzen(Duで呼び合うこと)ほど困るものはありません。なぜなら、Duの場合の動詞変化がとっても怪しいから。
Sieの場合はなにがラクといって、-enで終わるので変化を覚える必要がないのですね。でも、Duの場合には-stで終わらねばならず、変化型をちゃんと覚えてとっさにいえないと会話にならないのです。

そんなわけで、教室では「Duzenしましょう」といわれるのをひたすら恐れているのです。
もっとも、多くの講師よりも私は年上なので、よほど親しくならない限り向こうからDuzenを持ちかけられる可能性は、低いのですけどね。

日本語にはもっとたくさんあるけど
二人称なんて英語の「You」みたいに一つで良いじゃん、と思っちゃうのですが、それを私たちがいうと日本語を学ぶ外国人からは「日本語にはいったいいくつあると思ってるんですか!」とおしかりを受けそうです。
きみ、あなた、あんた、おまえ、そち、そなた、きさま...実にたくさんあって、それぞれが独自のニュアンスを持っています。「貴様」のように、意味合いが変化してきているものも少なくありませんし、「お宅」のように使われ始めてからあっという間に少々ネガティブな意味合いを帯びてしまったものも。

教科書的には、敬称二人称の「Sie」は「あなた」、親称二人称の「Du」は「きみ」と訳すことが多いようですが、間違いではないにせよ、どうしても細かな差が感じられます。
道ばたでタバコの吸い殻を投げ捨てた男性に警察官が「もしもし、あなたいま吸い殻を投げ捨てましたね」というときの「あなた」と、20年連れ添った妻が夫に「あなたって変わらないのね」とつぶやくときの「あなた」では、前者はたしかに「Sie」でしょうが、後者は明らかに「Du」です。

「おまえいうな!」
これは、大ヒットしたコミック「のだめカンタービレ」で、主人公がハリセンを持ってスパルタレッスンを行う教師に向かって突きつける言葉です。
最近では会社でも年下の社員に向かって「おまえ」などとのたまう管理者は減っているでしょうが、それでもゼロではありません。私の勤め先にも、たとえたった1年でも年下ならば二人称を「おまえ」でしか使えない人がいて、当然ながらそれだけで評判を落としてしまっています。
言葉によるマウンティングといいますか、自分を大きく見せたいという意識が強すぎると、かえって逆効果ですね。
もっとも、同じように「おまえ」を多用しても許されちゃう人というのもいるので、キャラクター次第なのでしょう。

では、この威張り散らす上役(まあ、同期出世頭の本部長さんとしましょうか)が、隣の部署の部長さんをその部下の目の前で「そんなのおまえがやればいいじゃねえか」と言い放ち、部長氏が「それは○○さんの役割だと思うのですが...」と押し返すシーンをドイツ語訳すると、どんなふうになるのでしょうね。
ドイツ語の場合、本部長氏が部長氏を「Du」で読んでいるのに、逆が「Sie」ということは通常あり得ないでしょう。なので、「Du musst das machen!」に対して「Ich glaube, Sie müssen das machen.」とはならないはずです。前者が「Du」ならば後者も「Du」のはず。けれど、日本語の世界では本部長氏から部長氏への方向と、逆方向とでは関係性が明らかに異なります。

しかも、階級差があるといった状況ではなく、客観的には同じ組織で働く勤め人同志で、本部長氏が多少能力があったか、運が良かったか、あるいはうまく立ち回ったかの差でしかありません。対等であるべき関係でしょう。
けれど、その関係において選ばれる二人称には差があって、しかもその意味するところは多分に多重的です。上記のケースで「○○さん」あるいは「本部長」と呼びかける部長氏は、相手に敬意を払っているのではなく「敬意を払っていることにしている」だけでしょう。

こうした違いを考えていると、翻訳というのがいかに困難な作業かということに気づかされますね。
普段私は翻訳物の小説などを読みながら「下手な訳だよなあ」などと文句をつけることが多いのですが、文化の違いや言葉の持つ意味のずれを調整しながら、しかも意味が伝わって読みやすい文章を、原作者の文体を活かして日本語に訳していくなんて、ほとんど不可能にさえ思えます。
幸い私は翻訳者をめざしているわけではないので、自分がその苦しみを味わう可能性は低いのですが、会話中にこんな些細なことが気になり始めると、困るんですよねえ。
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