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人生まだ半分、37才からの外国語
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英会話教室や雑誌、ネットなど、ごく普通の環境だけで始められ、続けられる外国語学習の記録と秘訣を伝えていこうと思っています。
 

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人生まだ半分、37才からの外国語

2013年5月 1日 (水)

「教養」の立ち位置は?~黒田龍之助氏講演を聞いて(3)
情報・知識・教養
黒田氏が大学での「検定試験」にすり寄った外国語教育を嘆いたあとに登場した言葉が、「情報と知識と教養」でした。
外国語を学ぶ、ことの意味を考えるとき、それを単なる「ビジネスの道具」と捉えてしまうことは、さまざまな可能性をつみ取る行為であると私は常々感じています。道具としての外国語を否定するわけではありませんが、まず言葉を道具であると規定してしまうところから始めてしまったのでは、失われるものも非常に多いでしょう。

たとえば、NHKの「実践ビジネス英語」について「ただの雑談」という批判を目にすることがあります。あれはビジネス英語ではない、と。
私など、その場その場にふさわしい雑談ができる能力は、外国語の習得のひとつのゴールにもなりうるほど高度なものだと考えますし、英語を日常的に使う職場で活躍したいと思うのなら、雑談力は重要です。
単に「ビジネスの話をするための道具」としての英語を求めると雑談などムダに思えるでしょうが、ビジネスの場での高度な交渉力「だけ」を訓練する方法って、あるんでしょうかね? それって総合的な英語運用力の問題でしょうから、「雑談だから良くない」という批判はずれています。「雑談ではなく○○によってより高い効果が得られる」であるべきでしょう。

ひとことで雑談なんていうと、思いついたことを好き放題にしゃべるような印象がありますが、相手との関係・距離感、共通の関心事項、タブーに触れないか、といったさまざまな条件をクリアしなければいけません。
日本の会社で日本人同志、しかもオッサンだけ、といった同質な集団での雑談しかしていないと、この訓練ができずに「たかが雑談」になります。
そこへ異質なメンバー、例えば女性が入っただけであっという間にセクハラオヤジができあがるのですね。どんな場所でもエロと職場ゴシップとゴルフと野球と床屋政談しかできない人たち。こういうのを、無教養といいます。例えブチョーでもトリシマリヤクでも。

外国語と、教養
教養、なんていうと、こんな誤解を生じるかもしれません。「いまどき情報はネットで検索すればいいのだから、知識を詰め込んだって意味はない」と。
確かに、ネットで検索すれば、大概の情報は手に入ります。情報という、個々の事実だけが必要ならば、それで十分でしょう。例えば、旅先のドイツでビールが飲みたいだけならば、「Zwei Bier, bitte!」というフレーズがわかればそれでOK。複数のメニューがあったらそれも調べればいい。検索で得られた情報だけで事足ります。

でも、検索してその場で得られるのは黒田氏のいう「情報」であって、体系化された知識ではありません。
ましてや、その情報をその場で「雑談」に織り込んで、相手の関心にマッチした会話ができるはずがないですね。情報が体系化されて知識として身につき、さらには関連領域の知識と相互に結びつけられてひとつの理解に達してこそ、外に表れる教養となる。

ドイツへの旅行者が全員ゲーテやシラーを読み、ベートーヴェンとヴァーグナーを愛好する必要がある、といった主張をしているのではありません。
最近話題となったミステリー作家のシーラッハでもかまわないでしょう。ただし、シーラッハだけを読んでいても、会話が続くとは思えませんよね。ミステリー好きならば世界中の作家がいるし、映画やテレビドラマに拡げられるでしょう。ミステリーを離れた現代のドイツ語圏の作家に進んでいっても良い。
その地域に関する自分の関心領域の知識を複数の領域と関連付け、全体理解に育てること(die Bildung)が、外国語を学ぶ醍醐味でもあります。

道具だから教養なんて不要か?
一生に一度、旅行するだけの場所なら、情報がいくつかあれば足ります。
でも、わざわざその地域で話されている言葉を学ぼう、と思っているなら、ビールを注文して飲んでお終い、ということではないはず。その地域の文化や風土に興味があるのでしょう。
基礎会話の領域を超えて外国の言葉を学ぶ、というのは、とりもなおさず、その文化を理解するための知識や教養を身につけることに近づいていくものではないでしょうか。

先日、外国語学習についてブログのネタになることはないかと思い、ネットを徘徊しているときにあるブログ記事を読んでいて、コメント欄にびっくり仰天。
文法の学習やTOEIC試験に頼らずに英会話を身につけたことをコメントする中で、それでも本の引用などには弱い旨を告白しつつ「先日知人が『To beer, or not to beer. That is the question.』といってて、何のことかわからなかった」との内容。
ご本人を批判するのが目的ではないのでリンクは示しませんが、やっぱりこれはズッコケますよ。そしてさらには、続くコメントで「調べてみたら『ロミオとジュリエット』の台詞でした」とあって、私は椅子から転げ落ちました(うそ...だけど心情的にはホント)。

「To be, or not to be...」といえば、ちょっと前には東京ディズニーランドのショーでミッキーマウスの台詞にさえ使われていたほどの有名なもの。ミッキーがしゃべったのは、「生きるべきか、死ぬべきか」と日本語ではありましたが。
「To beer,...」といわれてすぐにこの台詞に結びつかないのは、これはもう教養以前の問題で、日本でいうなら「古池や~」といわれて「なにそれ?」と聞き返すほどのインパクトがあると思われます。
そしてさらに、「ロミオとジュリエット」とは、一体何をどう調べたのやら。

それはまあ、シェイクスピアもハムレットも知らなくなって会話は成り立ちます。
口調の流暢さや、ちょっと気の利いた口語表現をおぼえれば、英会話を征服できた気にはなるでしょう。「道具としては」習得できたといっても良いかもしれません。
けれど、その道具が使える範囲は非常に限られています。日本人ならば、誰でも日本語は「流暢に」しゃべれます。しかし、時として耳を覆いたくなったり、話し手の顔をまじまじと見てしまうような「日本語会話」と出会うことがありますね。
電車内で酔っぱらったサラリーマンの集団の会話に苛立ったことがある人は多いでしょうが、「会話中心」「実用中心」の英会話なんて、同じようなレベルかもしれないと思いませんか。
英語は道具だからと、基礎から積み上げる努力を怠ると、結局口から出てくるのは酔っぱらいのセクハラオヤジと同じ言葉だったりするのって、すごくイヤですよね。

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