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人生まだ半分、37才からの外国語
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英会話教室や雑誌、ネットなど、ごく普通の環境だけで始められ、続けられる外国語学習の記録と秘訣を伝えていこうと思っています。
 

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人生まだ半分、37才からの外国語

2013年5月 1日 (水)

「教養」の立ち位置は?~黒田龍之助氏講演を聞いて(3)
情報・知識・教養
黒田氏が大学での「検定試験」にすり寄った外国語教育を嘆いたあとに登場した言葉が、「情報と知識と教養」でした。
外国語を学ぶ、ことの意味を考えるとき、それを単なる「ビジネスの道具」と捉えてしまうことは、さまざまな可能性をつみ取る行為であると私は常々感じています。道具としての外国語を否定するわけではありませんが、まず言葉を道具であると規定してしまうところから始めてしまったのでは、失われるものも非常に多いでしょう。

たとえば、NHKの「実践ビジネス英語」について「ただの雑談」という批判を目にすることがあります。あれはビジネス英語ではない、と。
私など、その場その場にふさわしい雑談ができる能力は、外国語の習得のひとつのゴールにもなりうるほど高度なものだと考えますし、英語を日常的に使う職場で活躍したいと思うのなら、雑談力は重要です。
単に「ビジネスの話をするための道具」としての英語を求めると雑談などムダに思えるでしょうが、ビジネスの場での高度な交渉力「だけ」を訓練する方法って、あるんでしょうかね? それって総合的な英語運用力の問題でしょうから、「雑談だから良くない」という批判はずれています。「雑談ではなく○○によってより高い効果が得られる」であるべきでしょう。

ひとことで雑談なんていうと、思いついたことを好き放題にしゃべるような印象がありますが、相手との関係・距離感、共通の関心事項、タブーに触れないか、といったさまざまな条件をクリアしなければいけません。
日本の会社で日本人同志、しかもオッサンだけ、といった同質な集団での雑談しかしていないと、この訓練ができずに「たかが雑談」になります。
そこへ異質なメンバー、例えば女性が入っただけであっという間にセクハラオヤジができあがるのですね。どんな場所でもエロと職場ゴシップとゴルフと野球と床屋政談しかできない人たち。こういうのを、無教養といいます。例えブチョーでもトリシマリヤクでも。

外国語と、教養
教養、なんていうと、こんな誤解を生じるかもしれません。「いまどき情報はネットで検索すればいいのだから、知識を詰め込んだって意味はない」と。
確かに、ネットで検索すれば、大概の情報は手に入ります。情報という、個々の事実だけが必要ならば、それで十分でしょう。例えば、旅先のドイツでビールが飲みたいだけならば、「Zwei Bier, bitte!」というフレーズがわかればそれでOK。複数のメニューがあったらそれも調べればいい。検索で得られた情報だけで事足ります。

でも、検索してその場で得られるのは黒田氏のいう「情報」であって、体系化された知識ではありません。
ましてや、その情報をその場で「雑談」に織り込んで、相手の関心にマッチした会話ができるはずがないですね。情報が体系化されて知識として身につき、さらには関連領域の知識と相互に結びつけられてひとつの理解に達してこそ、外に表れる教養となる。

ドイツへの旅行者が全員ゲーテやシラーを読み、ベートーヴェンとヴァーグナーを愛好する必要がある、といった主張をしているのではありません。
最近話題となったミステリー作家のシーラッハでもかまわないでしょう。ただし、シーラッハだけを読んでいても、会話が続くとは思えませんよね。ミステリー好きならば世界中の作家がいるし、映画やテレビドラマに拡げられるでしょう。ミステリーを離れた現代のドイツ語圏の作家に進んでいっても良い。
その地域に関する自分の関心領域の知識を複数の領域と関連付け、全体理解に育てること(die Bildung)が、外国語を学ぶ醍醐味でもあります。

道具だから教養なんて不要か?
一生に一度、旅行するだけの場所なら、情報がいくつかあれば足ります。
でも、わざわざその地域で話されている言葉を学ぼう、と思っているなら、ビールを注文して飲んでお終い、ということではないはず。その地域の文化や風土に興味があるのでしょう。
基礎会話の領域を超えて外国の言葉を学ぶ、というのは、とりもなおさず、その文化を理解するための知識や教養を身につけることに近づいていくものではないでしょうか。

先日、外国語学習についてブログのネタになることはないかと思い、ネットを徘徊しているときにあるブログ記事を読んでいて、コメント欄にびっくり仰天。
文法の学習やTOEIC試験に頼らずに英会話を身につけたことをコメントする中で、それでも本の引用などには弱い旨を告白しつつ「先日知人が『To beer, or not to beer. That is the question.』といってて、何のことかわからなかった」との内容。
ご本人を批判するのが目的ではないのでリンクは示しませんが、やっぱりこれはズッコケますよ。そしてさらには、続くコメントで「調べてみたら『ロミオとジュリエット』の台詞でした」とあって、私は椅子から転げ落ちました(うそ...だけど心情的にはホント)。

「To be, or not to be...」といえば、ちょっと前には東京ディズニーランドのショーでミッキーマウスの台詞にさえ使われていたほどの有名なもの。ミッキーがしゃべったのは、「生きるべきか、死ぬべきか」と日本語ではありましたが。
「To beer,...」といわれてすぐにこの台詞に結びつかないのは、これはもう教養以前の問題で、日本でいうなら「古池や~」といわれて「なにそれ?」と聞き返すほどのインパクトがあると思われます。
そしてさらに、「ロミオとジュリエット」とは、一体何をどう調べたのやら。

それはまあ、シェイクスピアもハムレットも知らなくなって会話は成り立ちます。
口調の流暢さや、ちょっと気の利いた口語表現をおぼえれば、英会話を征服できた気にはなるでしょう。「道具としては」習得できたといっても良いかもしれません。
けれど、その道具が使える範囲は非常に限られています。日本人ならば、誰でも日本語は「流暢に」しゃべれます。しかし、時として耳を覆いたくなったり、話し手の顔をまじまじと見てしまうような「日本語会話」と出会うことがありますね。
電車内で酔っぱらったサラリーマンの集団の会話に苛立ったことがある人は多いでしょうが、「会話中心」「実用中心」の英会話なんて、同じようなレベルかもしれないと思いませんか。
英語は道具だからと、基礎から積み上げる努力を怠ると、結局口から出てくるのは酔っぱらいのセクハラオヤジと同じ言葉だったりするのって、すごくイヤですよね。

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2013年5月 8日 (水)

にゅるん!?
にゅるんとしたニュース
連休明けはちょっと短めに。
本日のYahoo! Japanのスポーツニュースのこんな見出し、ご覧になりましたか?
「ニュルン C大阪・柿谷に興味」

朝から午後くらいまでは出ていたと思います。この「ニュルン」のインパクトはなかなかのものです。朝からウナギかドジョウですか、ってところです。
まあ、サッカー好きならば「C大阪」とあれば「セレッソ大阪」のことだし、「ニュルン」といえば、日本人プレーヤの清武選手や金崎選手が所属する「1.FC ニュルンベルク」のことだとわかるのでしょうから、文字数制限のきついニュースの見出しとしては、しょうがないんでしょうけどね。

一応、「Nürnberg」の「Nürn」だけで意味が通じるかどうか、不安だったので調べてみましたが、こういう単語はないようですね。
もともと、「Norenberc」という名で文書に登場していて、これ自体は「岩山」の意味なんだという解説もありましたが、現代のドイツ語で「岩」という意味の「Nürn」という言葉はないので、「ニュルン」はやっぱりなしでしょう。

勝手に切る
とはいえ、日本人は外国の地名や人名を勝手に短縮するの、得意ですよね。カタカナで表記してしまえば、今度は日本語的に語呂の良いところでぶった切ってしまっても、意外に通じちゃうものです。
その代表格が、「サンフラン」でしょうか。日本人にとってはいわずとしれた「サンフランシスコ」ですが、「San Francisco」を「San Fran」までで止めちゃうわけなので、おそらく初めて聞いたアメリカ人にはいったいどこのことなんだかわからないでしょう。
「サンフラン」の近くにある「ロサンゼルス」も、「ロス」と呼ばれますね。「Los」って、冠詞じゃなかったでしたっけ?

人名も長いのは長いですからね。
「チャイコフスキー」は「チャイコ」だし、「スクロヴァチェフスキ」は「スクロヴァ」に短縮されます。あ、でも「ストラヴィンスキー」や「ハチャトゥリアン」は同じくらい長いのに、「ストラヴィ」「ハチャ」にはなりませんねえ。
前者は、「ストラディ(ストラディヴァリウス)」と紛らわしいからか、あるいは単にポピュラリティの問題なのか。

しまいには、人名と作品名をつなげ始めます。
「ヴェルディのレクイエム」は「ヴェルレク」、「モーツァルトのレクイエム」は「モツレク」といった具合。なお、「ベルリオーズのレクイエム」は「ベルレク」にはなりません。紛らわしいから。
「ベト七」「ドヴォ六」「シベ三」なんていう略し方もあります。そりゃまあ、毎度毎度「ベートーヴェンの交響曲第7番」とか、いってられないけど。
日本語のこの懐の深さというか、器用さってのはすごいと思うのですが、外国人が日本語の日常会話に入っていこうとすると、きっと大変なハードルなんでしょう。

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2013年5月11日 (土)

語学学習の動機付け
SNSで研究材料を無料収集
昨日(2013年5月10日)早稲田大学で行われた、オンラインの外国語学習SNS「Lang-8」の創業者、喜洋洋氏の講演と、それに続くパネルディスカッションを聴講してきました。
内容的には、語学学習に終えるオンライン学習の意味合いや効果、起業、Lang-8のサービス内容そのものなど、いささか整理不足で散漫になった印象を受けました。ただ、喜氏の中国語学習体験に立脚した、「他にはないサービス」を事業化しようという意志と、起業してからの着実な歩みには感銘を受けました。具体的になにができるわけでもありませんが、今後の展開を応援します。
同時に、大学での「外国語教育」について、先日の黒田龍之助氏の講演とは別の方向から、問題を認識させられる場でもありました。

のっけから批判になって申し訳ないのですが、会場内で「Lang-8」を継続的に使っているユーザーの声が求められた際に、登場した「大学で英語を教えている」という人物の回答には少々驚きを禁じ得ませんでした。
この人物は、大学の講師であることを隠してユーザー登録し、学生の書いた英文を自分で書いたものとしてLang-8に投稿し、添削を受けてそのデータを研究用に集めているのだとか(講演の様子はUSTREAMで公開されることが予告されていますから、公開情報と考えて良いでしょう)。

そもそもユーザー同士が無償で相互に役立つことを基本として成り立っている場で、自らの立場を偽って研究の素材収集のために学生の文章を添削させているというのは、ずいぶんと身勝手な話です。
私ならば、このような研究材料の収集を無償で手伝わされているだけだったと知ったならば、きわめて不愉快でしょうね。こうした使い方を平然とするだけでなく、堂々とサービス提供者の前で公言するというのは、かなり非常識な振る舞いとして考えられません。

ハードルは下げるべきか?
もう一つの疑問は、Lang-8というサービスの「問題点」として、「わざわざ文章を書いて投稿しなければならない」ことが何度も指摘されていたことです。もっと気軽に使えるようになってほしい、といった要望が目立ちました。
これに対して喜氏もハードルを下げていきたい旨の発言をしていましたが、それが事業上プラスかマイナスかは、喜氏ご自身の判断ですが、利害両面あることはたしかでしょう。

私の疑問は、たかが数行〜数十行の文章を書いて投稿することさえ面倒に感じている「ユーザー」を、動機づけてハードルを引き下げて、いったいどうしたいのか、ということです。
そもそもそれだけの努力を行っているのならば、外国語の習得などできるはずがありません。ハードルを下げるのは、「ちょっとやってみて、結局すぐに挫折する人たち」を、膨大に、しかも継続的に集めて全体のレベルを引き下げる結果を招くことは明らかです。
パネルディスカッションでは、「どのようにして学習モチベーションを高めるか」なるテーマでかなりの時間を使っていましたが、そもそもモチベーションを低い人々を無理に学習の場に引き寄せようとすること自体がナンセンスではないでしょうかね。

大学の授業で動機付け?
こうした議論が当たり前に出てくるのは、大学という場でも「学び手のモチベーションを高める」ことが教える側の役割と認識されていることを示しているように思われます。
はたして、大学という場でそれは正しいのでしょうか。

いやしくも大学であれば、学生はなんらかの学習・研究に関心を持つことが求められます。
高校の延長で就職のための準備として大学に入ってきた学生もそれはたくさんいるでしょうが、その学生達はそもそも動機付けの対象でさえありません。学費を滞納さえしなければ、適当に遊んで卒業願うのが適切でしょう。
それなのに、大学側が懸命に動機付けをするなど、今時の学生は実にお気楽な「お客様」であるようです。

最後にパネラーの館岡洋子氏は、「SNSへの要望も良いが、リソースを示して、それをどう使うかは学習者次第でも良いのではないか」といった意味合いの言葉で締めくくっていましたが、私もまったく同感。
今回の講演とパネルディスカッションでは、主催者側の思い込みが強すぎて、結局議論の焦点が定まらないままに時間が経ってしまった感が否めません。それもまた、いまの大学という場が置かれている困難さの表れなのかも、しれませんが。

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2013年5月18日 (土)

"SUOMEA SUOMEKSI"
"SUOMEA SUOMEKSI"
何のオマジナイですか? と質問されそうですが、これは私の妻が使っていた、フィンランド語の教科書の名前です。日本語では「フィンランド語を、フィンランド語で」。
フィンランド語には前置詞がほとんどない代わりに、日本語の格助詞と似たように名詞の語尾を変化させて文中の役割を明確にします。なので、フィンランド語を意味する「Suomi」にいろいろとくっつくわけですな。

おっと、フィンランド語が今回のテーマじゃありませんでした。
ようはこの教科書、フィンランド語だけを使って外国人がフィンランド語を学べるようにつくられた教科書です。パラパラと見せてもらった限りでは、初学者でも何とか進んでいけるように、うまくつくられていると感じました。

2年前でしたっけ、NHKテレビ講座の「EURO24」が始まったとき、萬田久子さんによるイタリア語講座では、番組の前半は萬田さんとレギュラーのイタリア人(ルカとレオでしたっけ?)がイタリア語のみで会話をつなぎましたね。
外国語を学ぶ際に、母語を媒介とせずにその言語を通じて学習を進めるダイレクトメソッドには、さまざまなメリットがあるそうですが、イタリア語の経験もなさそうだし、コツコツと学習する気もなさそうな(笑)、萬田さんがそれなりに理解できていたのは印象的でした。

英語の授業は英語で
さて、ちょっと前に「高校の英語の授業は原則英語で」といった報道があったと思ったら、もう実際に始まっていたんですね。今朝、NHK「おはようニッポン」で授業風景が紹介されていました。
二人の教師が登場し、一人は生徒同志のコミュニケーションを取らせながらうまく授業を進めていたのに対して、経験の浅いもう一人は途中から一方的に話す時間が長くなってしまい(15分くらい話しっぱなし、と指摘されてました)、せいとの集中力を維持させられずに反省してました。いや、高校の先生も大変です。

そもそも高校の英語授業では、せいとを「英語が話せるようにする」ことは求められていなかったのに、急に「コミュニケーションだ」といった具合に仕事の条件が変わっちゃったので、新たな技術やスキルが求められているわけです。
まあ、普通に会社勤めをしていれば、急に経験のない仕事を任されて必死でやりかたを勉強するのは当たり前のことなんですが、教育分野にそのままあてはめるわけにはいきませんしね。
いずれにせよ、「英語で英語の授業」が始まったからといって、いきなり効果が上がるなんていう期待は、持たないほうが良いでしょう。こういうのは時間がかかるもの。

まずは「中学高校6年間も」をやめよう
新しい教育要領に対応しなければならない教師のみなさんには、ひとまずがんばってくださいというしかない(たとえその方針に反対でも、目の前には生徒がいるんだから仕事はちゃんとやろうね)のですが、一方で、高校の授業を英語にしたくらいで、わが子が英語を話せるようになる、と期待する親がいるなら、やめたほうがいいでしょうね。
「中学高校と6年間も英語を勉強したのにちっとも話せない」というのは、英語が苦手な人の多くに共通する主張です。「だから日本の英語教育は間違っているのだ」と。

でも、誰一人「6年間英語を勉強し続けた」わけじゃないよね。
週に英語が6時間あるとして(中学だと4時間?まあ単純化のため一緒にしときましょう)、6年間×40週×6時間で1440時間、自主学習がなければたったこれだけです。昔は週あたり3~4時間だったと記憶してますから、いまの大人は1000時間内外だったでしょう。
たったこれだけ、しかも一年あたりでは200時間程度にしかならない学習量では、外国語を話せるようになると期待するほうがおかしいでしょう。

高校卒業までに「英語を話せるように」なりたいのならば、学校の授業だけでは不足で学校外での学習が必須であることがわかります。子供を黙って高校に放り込んでおくだけで、我が子が「グローバル人材(笑)」なるものになってくることなんてありません。
親も子供も、自分が英語をできない理由を手っ取り早く学校に押しつけるのはやめにして、学校をリソースのひとつとして活用するように切り替えられれば、教師の苦労もむくわれるのではないかと思うのですけどね。

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2013年5月23日 (木)

英語に必要な12の新語
英語に必要な12の新語
iPad mini購入以来、WEBでニュースやブログを読む時間のほとんどがPCやMacではなく、タブレットで済ませるようになりました。
なんせ起動も早いし、わざわざ机に向かわなくても今いる場所でチェックできるのが便利。もしかすると、私もネット依存症・スマホ依存症かもしれません。

とはいえ、WEBブラウザでひたすら検索とリンクをたどって...といった、従来からの「ネットサーフィン」のイメージとは違います。これだけ情報量が多くなると、さすがに非効率。
タブレット以前には、RSSリーダーで目に付いた記事を読んでいくといったスタイルも便利でしたが、最近では「Flipboard」「Zite」などの、パーソナライズ可能なキュレーションサービス、なんていってもわかりにくいですね。個々人の関心に合わせてニュースやブログなどWEB上の情報を編集配信してくれるサービスを使います。

私は日本語サービスとして主に「Flipboard」を、英語での情報収集には「Zite」を使っているのですが、後者で配信されていた記事の一つが「Top 12 Words We Need in English」です。
英語には、人が経験するいくつかのとても重要な事柄を表す後が欠けている、として、今すぐにでも英語に取り入れるべき12の言葉が例示されます。

日本語からは3つエントリー
最初にあげられたのは、「gigil」です。
これはタガログ語(Filipino)からきている、「抵抗できないほどの可愛らしさ」に遭遇した時に、なぜか極端な行動を取ってしまう、人の状態を表すのだとか。
ネットでの日本語だと、「可愛すぎ」「悶死」などと表現されてますよね。日本の場合には、見ているほうがただ死ぬほどの感動に打ち震えているだけですが、タガログ語のオリジナルでは、なぜかその可愛い対象に暴力的になってしまう(あまりの可愛さに、孫のほっぺを強くつねってしまうんだとか...ちょっとわかりにくいですね)、というギャップはちょっと不思議ではあります。

さて、たった12の重要単語の中には、日本語から3つの言葉が選ばれています。すごいですね。
日本語には、英語では言い表しにくい概念が豊富に含まれるということでしょうか。たしかに、「わび、さび」なんかは訳しようがなくてそのままですが。

まずトップバッターは、ネット依存症のかたがたには耳が痛いかもしれない、「ひきこもり/Hikikomori」です。
もう一月以上も太陽を見てない、屋外で歩いていないようなら、ひきこもりになるかもしれないよ。日本では70万人以上(主として男性)が引きこもり状態にあって社会問題となっている、と解説されています。そっか、ひきこもり、という単語は英語にはないのですな。
自宅にこもっている人が皆無ということはなさそうですが...いや、増えているからこそ、この単語が選ばれたはずです。

続いて登場したのは、なんと私も大変親しみのある言葉、「積ん読/Tsundoku」です。
「Remember books?」なんていう始まり方で皮肉っぽいですが、積ん読状態の本は、「more as decoration than literature」だそうです。耳が痛いですね。
これもまた、もともとは独立した単語にはなかったのに、こうしてリストアップされるということは、実は買うだけ買って読まれずに積み上げられている本、というのは英語圏、おそらくはアメリカでも少なくなかった、ということの表れでしょう。

ヨコメシ?
そして最後に登場したのは、「Yoko meshi」です。なんだそれ?
ちゃんと「the Japanese term」だと書いてあります。意味は「a meal eaten sideways」だということで、まあ、確かに「横飯」ですけど、そんな言葉ありましたっけ?

困った時のGoogle先生に聞いて見たところ、「洋食」の意味で使われる他、商社の社員などが外国人と一緒に取る食事(外国語=横文字で話しながら食べねばならない)を指して使う言葉なんだとか。
ほう、全く知りませんでした。私はてっきり「横文字」が変になまって伝わったか、あるいはネット上で言い間違いがそのまま定着したかだろう、と思ったんですが。

まあなんにせよ、食事中もなれない外国語で会話を続けねばならないというのは、いささかストレスがたまります。食べた気がしない、というやつでしょう。
私は海外との仕事をしていませんので、数回しか経験はありませんが、確かに英語を聞き取っているうちに食事が冷めちゃうか、あるいは味をちっとも覚えていません。生まれてずっと英語を話している連中は、このストレスを感じないで済むのだと思うと、腹は立たないまでも、不公平だと愚痴りたくはなります。

英語は元々はゲルマン系の言葉に征服王朝と共に到来したフランス語が影響を与えつつ出来上がってきた言葉ですから、本来は外国語を取り入れるハードルは低いはず。
ならば、英語で話す時があったら、「ひきこもり」「積ん読」を積極的に使って、日本語をどんどんと国際化しちゃいましょう。でも、「自宅警備員」なんていっちゃうと、却って説明が面倒そうですけど。

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2013年5月25日 (土)

I Think the...
More on grammar

ウェールズに住む、5つの言語(英語、中国語、フランス語、ウェールズ語)を使える上に、さらに6つ(ドイツ語、日本語、スペイン語、スコットランド・ゲール語、マン島語、エスペラント)で基礎的な会話が可能(!)という、Ager氏のブログからの紹介です。
5月18日に投稿された「More on grammar」というタイトルの文章、短めですし、特に結論が書いてあるわけではないのですが、重要な問いかけ。

The importance of grammar in language learning is often played down in language courses and by people who blog about language learning. (Omniglot blog)

はい、日本人も最近大好きですよね。「文法偏重の教育では、英語が使えるようにはならない!」とか。
これに対して、Ager氏はこう言います。

I think that grammar, i.e. how a language works, and grammatical terminology (if you don't already know it), can be short cuts to achieving competence in a language. (Omniglot blog)

したがって、問題は文法知識の習得の要否ではなく、どうやって習得するかである、と。
私が賛成するまでもなく、上述のように11の言語を使い、さらにこれらに倍する言語の習得を目指しているという著者の言葉だけに、説得力があります。文法は不要なのではなく、その学習方法が問われるべき。
良くある日本の学校教育への批判も、「もっと効率よく文法や読解を習得させる方法を工夫してこなかったのはなぜか?」ということなら、私も同意できます。

I think the...

先月読んだ本、「英語学習論 -スピーキングと総合力-」の中に、私にとってはちょっと驚きのエピソードがありました。
アメリカで移民への英語教育を行う際に、会話のみで英語を話すようになった人々が「I think the...」という言い回しを使うのだそうです。

評判が悪いとはいえ、一定の文法教育を受けた日本人ならば、耳からそう聞こえたとしても「ああ、これは"I think that"と言っているのだな」とすぐに理解できるでしょう。
しかし、接続詞としてのthatの存在を知らないままに、耳から英語を覚えた人々にとっては、それは「I think the」としか認識できず、そのまま知識が固定化されていくわけです。

句動詞テスト
5月の連休中に、英語の動画レッスンを公開しているサイトを見かけて、「GET」を用いた句動詞の用法テストをやってみました。
私はこの手の句動詞が実は大の苦手。一見簡単そうな単語が連なっているだけなのに、意味まで簡単にたどり着けないことも多く、結局は単語の暗記と同じ程度の努力をしないと身につかないのですね。
とはいえ、ある程度の長さのある文中で出くわすぶんには、文脈から意味が取れるケースが多いのですけど、たまにかなりひねったものもあるので油断できません。

そんなわけで、「きっと半分くらいしかできないだろうな」と思ってやってみた10問のテスト、結果的にはほとんど迷わずに全問正解できました。
自慢しているわけではなくて、おそらくかなりの日本人が、全問正解可能だと思います。だって、4択の選択肢の中には「I getted」とか、「we be getting」のように、「それはないだろ」というのがたくさん並んでいるんですから。

ここからわかることは2つあります。
ひとつは、役立たないとかムダだとか言われている、日本の学校での文法や読解の授業からの知識は、それなりに英語習得の基礎知識として身についているものだ、ということ。
そしてもうひとつは、英語を第二言語として学ぶ人々の多くが、「I getted」「We be getting」といったレベルの問題で間違う程度のレベルであること。

基礎があってこそ

日本人が英語を話せない理由は、すごく簡単なことだと私は思ってます。
ひとつは、「話すための訓練をしていないこと」であり、もうひとつは「話す必要があまりないこと」ではないでしょうか。
前者については、コミュニケーションを重視する、という学校教育カリキュラムの変更によってある程度解決が可能です。しかし、後者は個人差が大きいし、意図的に増やすのには限度があります(授業を英語でやる、なんてのはひとつの手でしょうが、いかにも本末転倒)。

しかし、基礎体力もないのにいきなり試合に臨んでも良い結果は出ないし、チームの足をひっぱるだけ。
基礎を固めることを怠って、「コミュニケーションだ、会話だ」と実技に偏重しては、きっと日本人にも「I think the...」と平然と話し始める、自称「グローバル人材」を量産するだけかもしれません。

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2013年5月29日 (水)

The bucket list
なぜバケツを蹴ると死んじゃうのか?
「The bucket list」は、2007年の映画タイトルとして広く知られています。邦題は「最高の人生の見つけ方」。
現代の「The bucket list」は、死ぬまでにやりたいことがらのリストを意味しているのですが、それほど以前から使われていた表現ではないようです。

もともと、「Kick the bucket/バケツを蹴飛ばす」で「死ぬ」という意味があり、そこから「The list of things to do before we kick the bucket」つまり「死ぬ前にやっておきたいことのリスト」が「The bucket list」になったと。
そもそもこの作品での造語なのか、映画の評判が高かったので一気に使われ出したのかはわかりませんが、WEBで見つけられるほとんどの解説では、この映画のタイトルから、「The bucket list」という言葉が使われるようになった、といったものになっています。

さて、ではどうしてバケツを蹴飛ばすと死んじゃうんでしょうか。
バケツを蹴飛ばすと足に小さなキズができて、そのキズの治療のために絆創膏が必要になり、絆創膏が売り切れると...といった具合に話がつながると面白いのですが、そう簡単に桶屋は儲かりません。
私が見つけた語源は、「首をくくるためにバケツの上に立ち、ロープを首にかけたあとでバケツを蹴飛ばす」=「死ぬ」というものでした。なるほど、たしかにバケツを蹴ったら死んじゃいます。

Alaskan cruise is on the bucket list
昨年の夏休みに、北米のシアトルを発着するアラスカへのクルーズ船に乗ったときのこと。
下船後に空港近くでの宿泊先からシアトルの市街地へ食事と観光のために移動中、アメリカ人男性と日本人女性のカップルと一緒になり、では食事でも、という話がまとまりました。
移動中の鉄道社内から食事まで、けっこうな長時間の英会話雑談実践になりましたので、話題も多岐にわたったのですが、終わったばかりのアラスカクルーズについて、この「Bucket list」が登場しました。

彼曰く、「The Alaskan cruise has been on our bucket list.」だったんだそうで、ついにリストのひとつを片付けたんだと。
私はこの「The bucket list」なる表現を知らなかったのですが、「ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが出た映画があって...」という説明を受けてようやくこの作品に思い至り、意味が通じたのでした。
でも君には「Bucket list」はあるかと質問を受けて、私ははたと考え込みましたね。実際のところ、まだ自分の死期を間近には感じたことがありませんでしたから。

この会話から9ヶ月が経ちましたが、実のところ、まだ私は「Bucket list」を作ってはいません。行ってみたい旅行先だけをあげていっても、おそらくは長大なリストになるでしょうし、やりたいことはそれだけではありません。
きっと、途中までしかできあがっていないリストを見て、人生がどれほど長くてもリストの半分も消化できないことがはっきりとするだけで、結局はストレスを増やしてしまう結果を招くかも。

残ったのは、語彙だけ?
結局リストも作らず仕舞いだったわけですし、また、数時間にも及ぶ会話で私の英語コミュニケーション力が大幅に向上したわけでもありません。
おそらく、会話終了の瞬間が、この1年間の私の英語力のピークだったことはまちがいないのですが、それ以来、ほぼ英語使ってませんから。

それでも、「The bucket list」なる言葉と概念は、一生忘れないでしょう。たぶん、わりと苦労せずに使える表現にひとつとして、身には付いたと思います。
もしかすると、この表現が本当にヒット映画によって産み出されたものだとすると、堅い場所で使うには不適なのかもしれません。まあ、堅い場所でしゃべることになり、そのとき使いたくなったときに考えましょう。

やはり言葉というのは実際に使いながら習得するのが、最も記憶にも強く刻まれ、忘れにくいものだというのは実感できます。
得たものが結局は、この表現だけだったというのは、私の学習能力の低さを証明していますが、きっともっと柔軟な記憶力や応用力があれば、数時間の会話から得られるものは非常に多かったでしょう。せめてもうちょっと若いころだったらなあ...

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