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人生まだ半分、37才からの外国語
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英会話教室や雑誌、ネットなど、ごく普通の環境だけで始められ、続けられる外国語学習の記録と秘訣を伝えていこうと思っています。
 

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人生まだ半分、37才からの外国語

2009年7月14日 (火)

翻訳という豊かな文化
池内訳「ファウスト」を買ってきた
6月30日の記事にいただいたシュタイントギルさんのコメントがきっかけとなり、以前から気になっていた池内紀氏による訳のゲーテ「ファウスト」を買ってきました。

 言葉と気質(2009.6.30)

集英社文庫のヘリテージシリーズのひとつで、同シリーズにはダンテの「神曲」、ジョイスの「ユリシーズ」、プルーストの「失われた時を求めて」など、一度は読んでおきたい作品がずらりと(これらに「ファウスト」を加えた4作で22冊ありますからね、まさに「ずらりと」)並んでいます。恥ずかしながら「神曲」の地獄編を途中まで読んだきりで、他の2作は手をつけてもいませんが、やはり死ぬまでには読んでおきたい作品群ですよね。

中でもプルーストの「失われた時を求めて」はこの集英社文庫版で13巻、全7篇からなる大長編です。
とはいっても、平均以上の読み手であれば月に10冊の文庫本というのは決して多い方とはいえないでしょう。私の場合もいろいろ取り混ぜて8〜12冊が月当たりの平均ですので、おそらくひと月半もあれば読むことは可能だと思います。
ただ、こうした作品は、通勤電車の中で読むのではなくて、週末や長期の旅行でリラックスしてページを繰るのが良さそうに思えるのです。
そんなわけで、なかなか手が出ません。いつかは読むのでしょうが。

「ファウスト」といえば高橋訳
私が読んだ「ファウスト」は、新潮文庫の高橋義孝氏の訳出になるものです。いま手元にあるもの(1989年に買ったようです)の初版日付は「昭和42年11月25日」となっていますので、かれこれ40年以上も読み継がれている名訳といって良いものでしょう。
未読のかたにはゲーテの代表作なんていわれると小難しくて読みにくいものを想像されるかもしれませんが、もちろんちょっと古さを感じさせる表現はあるものの、実にリズミカルな口語体でそれこそ「声に出して」読みたくなるような名調子です。嘘だと思ったら一度手にとってご覧ください。

最初にファウストが登場する場面での独白は、ドイツ語では次のように書かれています(Project Gutenbergのサイトより)。
Habe nun, ach! Philosophie,
Juristerei und Medizin,
Und leider auch Theologie
Durchaus studiert, mit heißem Bemühn.

この部分、高橋訳では次のようになっています(新潮文庫版による)。
いやはや、これまで哲学も、
法律学も、医学も、
むだとは知りつつ神学まで、
営々辛苦、究めつくした。

同じ箇所は池内訳ではどうなっているでしょうか?(集英社文庫版による)
なんてことだ。哲学をやった、
法学も医学もやった。
おまけに神学なんぞも究めようとした。
しゃかりきになってやってきた。


この部分からだけでの判断は危険ですが(まだ池内訳を読んでいないので...)、どうやらドイツ語原文に比較的忠実なのが高橋訳で、言葉を補いながら平易な日本語でリズム感も持たせようとしているのが池内訳といえるかもしれません。
いずれにせよここだけでも判断がつくのは、私が「ファウスト」を味わいながら読もうとすれば、日本語訳に頼るしかないということです。だってほら、「おやおや、いままでに哲学と法学と医学、そして気の毒な神学を大変な労力をかけて徹頭徹尾学んだ」なんていう直訳では、とてもこの長い作品を楽しむことなんてできそうにありませんから。

翻訳という豊かな文化を味わう
どちらの訳を採るかは、もちろん、好みの問題であるとも思います。また、読むタイミングも。
私は比較的柔軟性に欠ける子供でしたので、中学高校の時代に池内訳と出会っていても受け付けなかったかもしれません(もっとも、その頃には「Project Gutenberg」なんかなくて、自宅で手軽にゲーテの原文に当たるなんてことも、できませんでしたが...)。でもいまなら、何度も繰り返し読んできた高橋訳とは違ったアプローチでの「ファウスト」を楽しめます。

いってみれば、同じ曲をさまざまなオーケストラや指揮者で、同じオペラを違った劇場や歌手と演出で楽しむのと似ているかもしれません。音楽ならばこうして何種類もの違った演奏を聞き比べる楽しみがあるのですから、せっかくの翻訳です、複数の違った訳文を読み比べるのもまたおもしろいものではないでしょうか。
亀山訳「カラマーゾフの兄弟」(光文社古典新訳文庫)は100万部を超えるヒットとなったようですが、たしかに現代の日本語話者が抵抗なく読み進められるよう、慎重に言葉を選んだもののように思えました。
しかし、原訳の新潮文庫版が決して読み進められないほど難解なのではなく、訳文のスタイルが違っているだけです。

外国語学習者である私たちは、ともすれば文学作品でも原語で読むことのほうが良いかのような錯覚にも陥りがちですが、むしろ、これほど豊かな翻訳文化を享受できる幸せをたっぷりと味わうことのほうがずっと楽しい人生を送れるかも。
もちろん、原語「でも」読めればさらに違った楽しみかたができるでしょうが、これほど豊かな翻訳の世界を持っているのは、もしかしたら私たち日本語話者の他には、世界中を探してもそうはいないのではないでしょうか。
外国語学習がテーマのブログで翻訳の話は、本来の趣旨からは外れるかもしれませんが、私は言葉を学ぶほどに、翻訳という行為の難しさやそのすばらしさに、心惹かれます。
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シュタイントギル:

 池内紀訳をはじめとする翻訳、そして翻訳文化に関する見解、興味深く読みました。
 ファウストの翻訳でいえばDurchausの解釈に一つポイントがありそうです。durcheinanderというと滅茶苦茶という意味があるように、この言葉の語感を池内さんは翻訳に活かしており、深い翻訳だと思います。そのほかの例として、私のブログから紹介しておきます。http://steintogil.at.webry.info/200712/article_14.html
 そして、池内さんの訳は大好きなのですが、直訳風のごつごつした訳も、いいと思うことがよくあります。例えば、ハムレットなどシェイクスピアの劇を上演するとき、わざわざ、そのようなごつごつした文語調の訳を選ぶ劇団もありますね。加えて、そのような優れた翻訳に助けられながらも、名作を原文で味わうことができたらと思っています。そのような夢をもってNHKの講座を楽しんでいます。

 

d-mate Author Profile Page:

いやはや、今週はずっと夜が遅くなって、しかも付き合い酒の入る日が多くコメントへのお返事がすっかり遅くなりました。
なるほどなるほど、辞書で「durch〜」を前綴りとする語を順に見ていくと、表面的に「durch=英語のthrough」という理解をしてはいけないことがわかりますね。ご紹介いただいたカフカに関する例も非常に興味深いです。どこまでが翻訳で、どこからが解釈なのかの線引きはそう簡単ではないでしょうが、少なくとも訳出された日本語だけを頼りに読む場合、忠実な訳であるがゆえに取りこぼされる感覚というのもありそうです。
私の場合は、まだ英語であっても表面的な意味を取って喜んでいるだけですので、文学作品を原語のもつ意味の深さを味わうのは無理そうで、もうしばらくは(いや、もしかしたらずっと)優秀な翻訳家に寄りかかって読むことになりそうです。だからこそ、気に入った作品であれば複数の訳で読むことも大切なように思われます。
ヘッセなんかもたしか中学校で読んだきりですから、いま手に取ると新しい読み方ができそうです(そもそも、「Narziss und Goldmund」未読ですし)。