2013年7月24日 (水)
フランスと英語
英語は別に世界語じゃない 前回ミュンヘンから更新しましたが、その後、南フランスの街エクスアンプロヴァンスに移動して数日を過ごしました。 目的は毎年ここで行われるエクスアンプロヴァンス音楽祭。リヒャルト・シュトラウスの歌劇「エレクトラ」と、二つのオーケストラ演奏会を聴き、日中はツアーに入ってプロヴァンスの美しい風景を楽しめました。残念ながら休暇には終わりがあるもので、すでに帰国しています。 私がフランスにきたのは15年ぶり。前回は1998年、そう、日本が初めて出場したサッカーのワールドカップ以来です。 あの時はパリを拠点としてリヨンとトゥールーズに日帰りで移動し観戦、試合の間の期間にはパリ近郊のディズニーランド・パリで過ごしましたが、英語がある程度通じたのはディズニーの施設内くらいで、パリでさえレストランに英語メニューがあればいいほう、といった具合でした。 当時の私は英語さえまともには使えなかったので、どう行動していたのかよく覚えていませんが、とにかく「フランスでは英語が通じない」というよりも、「英語は別に世界語じゃ、ないんだ」というのが実感でした。 15年後のフランス 前回の訪問から実に15年、久しぶりのフランスでしたが、私は今回は以下の三つの理由から英語の通じる度合いは相当高いだろうと考えていました。 ひとつには、この15年での経済のグローバル化によって、ビジネス場面ではおそらく英語によるコミュニケーションが日常化しているだろうということ。ふたつめに、最近訪れたヨーロッパの国であるフィンランドとドイツでは、ほとんどの場面で英語のみを話して不自由のない状態であったこと。そしてみっつめに、訪問先であるエクスアンプロヴァンスは海外からの観光客も多い古くからのリゾート地であること。 実際はどうだったでしょうか。 英語でなんとかなる範囲は、たとえば前回のリヨンやトゥールーズとは段違いに多かったと感じました。しかし、「英語さえ話せれば不自由はない」というには程遠い、というのが実感です。 なるほど目抜き通りであるミラボー通りに面したカフェやビストロには英語メニューがあり、英語での注文受け答えの可能なお店も少なくありません。しかし、観光客の多い店であっても、英語がまったく通じないところが多く、買い物程度だから何とかなっている、という状態。 驚いたのは、エクスアンプロヴァンス音楽祭の会場のひとつである劇場内スタッフが、ほぼ英語を解さなかったこと。 受付で窓口預けのチケットの受け取り場所を尋ねた時も、若い男性は「Where can I pick up my tickets?」なる質問にはぽかんとしていて(もしかして「Could you tell me〜」と始めなかったので気分を害した?)、私が差し出したフランス語での予約受付票をじっと読んでから、もちろんフランス語で人が並んでいる列の一方を指し示しました。 休憩時間にの売店でも、「Apple juice, please」は何度繰り返しても通じません。見兼ねた隣の男性客が「Jus de pomme!」と言ってようやく理解。私の発音が悪かったんでしょうけど、「Apple」程度の基礎的な英語がわからないというのは考えにくいので、「ここでは相手は必ずフランス語を話している」という硬い信念なり思い込みの故でしょう。まあ、Jus de pommeくらいの言葉は覚えてから行きましょう、ということでもあります。 英語化の良し悪しはあるものの 滞在最後の二日間、近隣の街を巡るツアーを手配したのですが、日本人パートナーと暮らし、外苑前でレストランを営んでいたこともあるというフランス人男性がガイドをしてくださいました。 彼に「15年前とくらべても、英語を話す人が増えた印象はありませんね」と尋ねると、やはりこれだけ多くの観光客を迎えるのに、フランス語しか話そうとしない人が多いことには疑問を感じるとのこと。 もちろん、マルセイユの空港でのカウンターやカフェ、売店などの、さらに外国人とのコミュニケーションが日常的な場所では、ドイツやフィンランドと同様に英語だけで十分な会話が可能です(不十分なのはこちらの英語のほう...)。 なので、英語を話せる人の絶対数が少なく、さらにその少数は英語が必要な職場にいるために、普段の観光で出会う人たちは英語の通じにくい人が多くなってしまう、ということなのでしょう。 ミラボー通りのカフェにしても、そこで働く人たちの英語は、日本人の中で英語が苦手ではない、という人たちと同レベルです。日本人のカタカナ英語が通じない、とよく言われますが、フランス人のフランス風英語だって相当リスニング困難です。 フランスは、アカデミー・フランセーズ(l'Académie française)の存在に象徴されるように、母語を非常に大切にする国としても知られています。 たとえば2003年に、電子メールについては「E-mail」ではなく「courriel」がオフィシャルな単語になっています。でもこれ、多分そう多くは使われていません。何かこう、戦争中に外来語を排除して「ストライク、ボール」を「ヨシ、ダメ」に言い換えました的な無理やり感が漂います。 フランス語はかつてヨーロッパの国際語でもあり、今でもその地位を部分的にせよ守れていることから、余計に英語の特権的な地位を認め、受け入れる気にはなれないのかもしれません。でも、その姿勢が個々人の英語に対する姿勢にまで影響していないとは、いえないのでしょうか。 外来語を無頓着に受け入れ続けると、母語の統一性や伝統、あるいは美しさなどが損なわれかねないことは、私たち日本人はよく知っています。同時に、外来語に開放的であることの利益も、私たちは日々実感してます(もっとも、「リスク」などという外来語をNHKが使うのは許せん、と裁判に訴える御仁もいるようですが)。 母語を大切にすることと、外国語を排除することは同じではありません。日本語を正しく使えるようになりつつ、英語や他の外国語を習得することは不可能ではありません。そしてその方法も、若年教育だけではないはず。 冷静になればわかるはずなのですが、いま現在、英語を比較的上手に使える人たちの圧倒多数は、大人になってから英語を身につけたのです。したがって、英語を使える日本人を育てるために、無理やり小学生をインターナショナルスクールに送り込んだり、他の教科の時間を減らしてまで英語の若年教育を行ったりする必要はありません。それらは取り得る選択肢の一つにすぎない。 日本を訪れた外国人が、食事や買い物の際に日本語の理解を強いられることは、少なくとも私の価値観では「おもてなし」とは思えません。フランス語でまくしたてられ、聞き取れた単語と文脈からなんとか理解はしても、相手への感謝や尊敬の念は生まれません。 さて、私たちは国際語としての英語にどう向き合い、どう付き合って行くのでしょうか? フランスは、少なくとも良いお手本とは、言い難いように感じられます。 |