2014年2月 8日 (土)
ゴガク3つのウソ
便利だけど怖い ネットのおかげで、ちょっとした疑問を持ったときにすぐに調べられるのはとっても便利です。 たぶん私がいま小中学生だったら、教科書に出てくる概念や知識を「記憶する」という努力を一切していなかったでしょう。何せナマケモノですから。 丸暗記が勉強ではありませんが、一定量の知識は学習の効率を高めると私は思っています。インターネット以前に生まれ育った私と、今の子供たちとでは「学習」のプロセスが全く違うものになっているのかも。 ネットの問題といえば、検索してサッと出てきた情報が正しいのかどうか、確かめないと後で大恥をかいたりする危険もあります。 とくに食の安全とか原発事故など、多くの関心の集まるテーマでは、根拠の不明確な情報が瞬く間に拡散してしまい、あたかも確定した事実であるかのごとく扱われてしまっている事例をよく見かけます。その不確かな情報に振り回されて行動してしまうケースもあるわけで、怖いですね。 一定水準の知識があれば、「あれ、変じゃないか?」と気づける範囲が拡がります。 しかし、知識の「記憶」あるいは「体得」といった努力への動機付けが弱まってしまうと、「あらゆる情報をとりあえず疑ってみる」といった気疲れの多い行動を増やさねばならないようにも思えます。怖い上に疲れる。 ネット以前からあった 不確かな情報がいつの間にか「たしかな情報」であり「常識」になってしまうのは、なにもインターネット上だけのことではありません。 根拠が良くわからないけれど、こういう決まり、しきたり、当たり前、という事柄はそこら中に転がっていて、大きな影響がなければ深く考えずに「当たり前」にしたがっておくというのも、生活の知恵ではあります。 一時の流行ではなく、長い時間をかけて定着したものであれば、一定の合理性があるとみなすことも無理ではありません(社会環境の変化によって非合理になってしまうものを、見直す必要は常にありますが)。 けれど、その知識なり経験則なりの根拠が、どうも怪しいにもかかわらず一般に信じられてしまっているものもときおり見受けられます。 こうした「誤った神話」は、根拠が求められないままに信じられてしまっているので、覆すのはけっこうたいへんだったりします。だって、信じている本人がすでに思考停止しているわけですから。 ゴガクの3つのウソ 外国語を学ぶ上でも、「いかにも確からしいけど、根拠の曖昧な考え」がいくつかあります。 ドイツで起業した語学関連の企業bab.laによるブログ「LEXIOPHILES」の「3 Lies people tell you about language learning」という記事に、3つの「ウソ」について紹介がありました。 その3つのウソとは、つぎのものです。 「ネイティブ話者が、最良の教師である」 「言語を学ぶにはあなたは年齢が高すぎる(≒高齢者に外国語は無理)」 「海外で生活すればそこの言葉は覚えられる」 どうでしょう、どれも一度は聞いたことがありますね。私も「自分だって留学できていれば英語くらい...」と思っていた時期がありました。 これらがなぜ「ウソ」なのか、についてはぜひ本文を読んでみてください。たった400語強の短いエントリですので。 大事なことは、「日本人講師しかいないから」「もう年だから」「留学も長期滞在も無理だから」と、最初からできない理由を並べ立てて諦めないことですよね。これらの「ウソ」の罪深いところは、「英語ができないのは私が悪いんじゃない」という逃げ場をつくってしまうこと。 ウソがウソを呼ぶ 逃げ場といえば、もうひとつ罪深い「常識」がありました。 「私が英語を話せないのは、読み書き偏重の日本の英語教育のせい」 これ、ダメです。たしかに、日本の英語教育は「英語の文献を読める」人材を育てることに重点化されていたのは事実だったかもしれません。 けれど、その教育を受けて、しかも留学の経験もないのに英語を話せる人はたくさんいるのです。学校や教師のせいにしてしまえば、自分の努力や意欲の不足が消えるわけじゃない。 さらに罪深いことに、これを利用する人たちがいます。 「あなたが英語を話せないのは、学習方法が間違っていたから。この○○を使えば...」 だまされちゃいけません。そんな画期的な学習法があるなら、世界中の人たちがなんの苦労もなく外国語を話していたでしょう。 日本人の多くが英語が苦手なままだという事実が、この宣伝が大嘘であることの証人です。教材が存在していること自体が、その教材が宣伝通りのものではないことを証明してしまっているというのは、何とも皮肉ですね。 ウソの上にウソを重ねた宣伝文句には、くれぐれもご用心。 |