2010年7月10日 (土)
逢い見ての のちの心に くらぶれば 昔は物も 思はざりけり
中学の、あれは何年生だったかな、国語の授業で ひたすら百人一首を覚える、という課題が与えられたことがありました。
「素読」というものもありますので、全く意味の無いことではなかったはずなんですけど、 一首覚えたら先生の前で暗唱し、言えたら次の首を覚える、ということの繰り返しは 少なくとも私の脳には効果が無かったようです...
既に私は古文に対して強い苦手意識を持っていました。その理由がまさにこれ:
日本語の詩文は主語が省略されることが多く,
動詞の活用で判別できるとはいえ、イタリア語や、もしかしたらスペイン語も? 主語を必ずしも必要としない言語ですよね。それに比べてドイツ語と来たら。
きちんと主語を入れるドイツ語
ま~頑固一徹。でも、私には合っているようです。ややこしくない。まぎらわしくない。
でもね...ドイツ語訳を読んで、なんとか理解して、もっかい短歌に戻って来たら...
久々に思い出しました、日本語にしかない良さを。 これが良さなんだか悪さなんだかは難しいところなんですけど(笑)
主語が無いからこそ、共感できる。 そういう時がある。
これは二度目の学生生活で学んだことですが、 主語が無い文章とは、書き手と読み手とが一体化してしまう可能性を持っている、 なんというか、混ざり合ってしまうというか、えーと、説明しにくいんですけど...
そしてそれこそがまさしく、日本人のメンタリテートそのもの、という言い方も出来る。
...よくわからないまま書いている気がするのでもうやめますけど(汗) 短歌の、いえ、すべての詩文の良さは、やっぱり 「時空を超えた共感」にあるのでしょうね。でもやっぱり、苦手ですけど(笑) |